地道な市民

既得権益の呪い

 グローバル化によって、生産拠点は労働力の安い地域に移転されていく。それに伴い、国内の生産が空洞化する。

 これは、グローバル化においてもう避けようのない現実となっている。

 同時に、ものつくりにおいて一つの製品を造るのに、サプライチェーンが世界各地に拡散されている。製品は、製品として最終組み立てされた場所が製造地になっているにすぎない。

 最終組み立てした製造地が、その製品の輸出国でもある。製品のほとんどが他国で生産された部品で構成されていようが、製造地は製造地だ。

 でもこの現実は、忘れられていないだろうか。たとえ自国で生産した部品が一つもなくても、最終組み立てしただけで、最終製造地としての誇りのようなものがある。

 ものつくりにおいては、輸出も輸入もなしには、ものつくりはできない。半製品部品を他国で加工してもらって(輸出して)、完成部品として輸入する場合もある。

 国際的な協力関係が、より密接になっているといえる。国際的な持ちつ持たれつの関係だ。

 このものつくりにおける協力関係は、お互いが対等な関係で、尊重しなければ成り立たない。それも、忘れられがちではないだろうか。

 たとえ小さなネジ一つが欠けても、製品は完成しない。これは、ぼくがプラント建設で調達の仕事をしていた経験から学んだ教訓だ。すべての部品が揃わない限り、プラントは動かない。

 それは、製品一つ一つについてもいえる。

 小さなネジだからといって、バカにはできない。そこには価値の優劣はない。すべての部品一つ一つが一つの製品に必要不可欠な歯車なのだ。

 だから、部品を国内生産しようが、輸入しようが、部品は部品。そこに優劣はない。優劣があるのは、部品の品質と価格だけだ。

 ものつくりの論理は、簡単だ。安くていい製品をつくりたければ、安くていい部品をつくるか、それを調達する。それが国内産か、輸入品かは関係ない。国内でできないもはできない。

 だから、国内生産にこだわる保護主義的な考えは、グローバル化した社会ではもう通用しない。保護主義には、自分たちのほうが優秀なのにという優越感がないだろうか。その優越感を守ろうとして、保守的になる。

 保護主義者たちは、グローバル化によって国内に取り残された人がたくさんで出たいう。でもそれは、本当にグローバル化のせいだろうか。

 それはむしろ、経済と政治が国内で、人材育成や技術革新、構造改革を十分に行ってこなかった結果ではないか。

 技術革新のテンポは、ものすごく早い。国際競争が益々激化している。それに乗り遅れると、国内に取り残される人たちが増える。

 それに対抗するには、国内に国際競争の影響を受けにくい産業構造を造り、国際競争に負けない産業を育てていく以外にない。

 でも既存産業は、既得権益を守ろうとして、改革を妨害する。その結果、国内のものつくりは、国際上のテンポの速い技術革新に負けていく。

 競争に負けないためには、常に速いテンポで頭を切り替えて、既存のものを破壊していかなければならない。それに代わって、新しいアイディアやものを生み出していく。

 でも既得権益に縛られると、それができない。既得権益を守るしかない。それが、保護主義でもある。

 それによって、世界の技術革新のテンポから取り残され、問題が発生する。でもそれは、グローバル化の問題だろうか。グローバル化自体に問題があるのではなく、むしろ既得権益を守ろうとすることに問題がないだろうか。

 そうだったら、それはむしろ国内の問題だ。

(2019年5月16日、まさお)

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