ネオリベラリズムとグローバル化

 ネオリベラリズム。日本語では、新自由主義ともいわれる。

 ネオリベラリズムは自由競争を基盤にして、小さな政府によって政府の規制を極力抑えるべきだとする。社会保障・福祉も最低限にして、富を分配する必要性も認めない。

 企業や個人が自由競争によって豊かになれば、増加した富が社会全体に分配されるとする。資産家や企業家が投資や消費によって、社会に富をもたらすのだ。その富が、中間層や貧困層の所得を引き上げる。それでいいのだという。

 多くの先進国において、株配当利益や資産などの課税率が、労働で得た所得の課税率よりも低くなっているのは、この考え方に基づいているといわなければならない。

 このネオリベラリズムの考え方が、グローバル化の基盤にあるのはいうまでもない。自由競争が経済をグローバル化させ、資本を所有する一部の富裕層の資産がより拡大する。

 その結果、生産が世界中に分散して分業化され、サプライチェーンがグローバル化する。市民の自由や権利よりも、資本の自由のほうが優遇され、市民の自由と権利は保護されなくなる。

 資本を優先するのは、市場における公平性を確保するためだとされる。そのために規制が緩和され、交通、通信、福祉、教育、水道、エネルギーなど市民の生活に必要なライフラインも民営化される。

 途上国で、労働基準や環境基準がないに等しいのも、そのためだ。

 こうして自由競争によって競争がより激化し、市場の優劣、資本能力、市場における個人能力の優劣などによって、勝ち組と負け組に二分される。社会的格差が拡大する。

 ただネオリベラリズムにおいて、社会的格差はシステムの問題ではないとされる。競争に勝って勝ち組に入るのは、常に新しい製品やサービスを市場に出して改革していく企業の責任だとされる。個人においても、個人の能力を引き上げる努力をして勝ち組になるかどうかは、自己責任の問題となる。

 それが、自由ということでもある。

 自由競争に勝つには、企業も個人もくたくたになっても走りまくるしかない。グローバル化がすごい勢いで拡大しているのも、そのためだ。労働時間が増え、個人の自由な時間は失われる。

 でも、誰もが走りとおせるわけではない。自由競争が激しくなればなるほど、走れないで落後する人たちが増える。また、走り続けることに疑問を抱く人たちも出てくる。

 自分の老後やこどもの教育に対する不安も生まれる。治安が悪化し、社会的な不安が増大する。

 ネオリベラリズムは、自由を基盤にしている。でもそこに内包しているのは、勝つか負けるかしないことだ。勝つか負けるかは、一つの物差しでしか判断されない。

 すべてのものが、一つの物差しで白黒に二分される。でも、それは自由だろうか。

 自由というなら、物事を判断する物差しも自由にあっていいはずだ。でもネオリベラリスムは、一つの物差ししか認めない。

 結局、それが負け組をつくっているネオベラリスムの根本的な問題だ。物差しがたくさんあれば、勝ち組も負け組もない。格差も生まれない。

(2019年5月30日、まさお)

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