ソーシャルメディアも同じプラットフォーム

 前回、アマゾンや楽天市場など商品やサービスを提供するプラットフォームの問題について書いた。フェイスブックやツイッターなどのソーシャルメディアも、実は構造的にはプラットフォームだ。

 ここでは、ソーシャルメディアということばを使った。でもフェイスブックやツイッターはむしろ、友人同士のつながりでコミュニケーションするSNSではないのかといわれるかもしれない。

 情報の発信者あるいは発信された情報と受信者がつながって、コミュニケーションができるのは基本的に、ソーシャルメディアではないか。

 SNSとソーシャルメディアの違いは、友人同士など人と人のつながりが全面に出ているのがSNSだということではないのだろうか。

 だから、SNSがソーシャルメディアの一部であるのは間違いない。ここでは、むしろプラットフォームとしての特徴について取り扱うので、全体としてソーシャルメディアとしておくことにする。

 いずれにしても、その発信者と受信者のつながりがないと、コンテンツはできない。これは、とても大切な点だと思う。プラットフォームを提供するプロバイダーは、そのコンテンツはつくってはいない。人と人の出会う場、情報と人が出会う場を提供しているにすぎない。コンテンツをつくるのは、発信者であり、受信者だ。

 そして、発信者と受信者では、受信者が発信者になることもあり、発信者が受信者になることもある。そこでコミュニケーションが成り立ち、コンテンツが生まれる。プラットフォームでは、この両者のつくるコンテンツによって魅力のあるなしが決まる。むしろ、発信者と受信者がプラットフォームの魅力の創造者といってもいい。

 いや、コミュニケーションのできる場があるから、利用者が集まってくるのだというかもしれない。でも、その場にあるコンテンツに魅力がないと、利用者は集まらないし、コミュニケーションは成り立たない。

 プラットフォームの魅力をつくっているのは、発信者でもあり、受信者でもある一般市民なのだ。プラットフォームはそれに対して、コンテンツの魅力でできるだけ多く集客して、広告と集客によって集めたビッグデータで利益を上げる。でも、コンテンツをつくった一般市民には、その対価は支払われない。

 でも、発信者と受信者の行う行為は、労働ではないという意見も出てくると思う。でも、コンテンツをつくって、コンテンツに魅力をもたらしているのが発信者であり、受信者であるなら、両者はプラットフォームのためにある種の「労働」をしていないのだろうか。

 労働はデジタル化された社会において、新たに定義されなければならなくなっていると思うが、ここではそれについて深くつっこまない。

 コンテンツの魅力こそがプラットフォームの魅力であり、プラットフォームがそのものが魅力ではない。その魅力の創造者は利益を得ることなく、毎日コンテンツを更新し、より魅力あるものにしている。

 それに対し、プラットフォームだけが日々莫大な利益を上げている。

 この構造は、アマゾンなど商品を仲介するプラットフォームとまったく変わらないと思うのだが、どうだろうか。

 プラットフォームは、プラットフォームにばかり利益が集中する構造になっている。ぼくには、それがとても問題だと思えてならない。

 利益の分配がないと、一般市民はどうして食べていくことができるのか。でもプラットフォームは構造からして、ものつくりなど実体経済と違って利益を分配できる構造にはなっていない。

 この問題は労働と関わりのあることなので、デジタル化社会において労働がどうなるかについては、また別の機会に考えたい。

(2019年9月19日、まさお)

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