地道な市民

給与や報酬を得ることだけが労働ではない

 これまでこの章において、たとえば「急がば回れ」や「市民から村民へ」、「地方分権化する」などの項で書いてきたことは、ぼくたちの生活にゆとりと柔軟性をもたせるということでもある。

 ぼくたちの生活は現在、いつも時間に終われ、ゆとりがない。

 コンビニはいつでも買い物ができるので、便利なように感じる。でもコンビニは、ゆとりのない生活を象徴している一つの社会症状だといわなければならない。なぜコンビニが必要なのか。本当にコンビニは必要だろうか。そこから、考えるべきではないのか。

 現代社会はいろんな点で、ぼくたち市民により多くの自由を与えているように見える。ぼくたちは世界中、簡単にどこにでもいけるようになった。インタネットを使えば、世界中で簡単にコミュニケーションできる。コンビニがあれば、いつでも好きな時に、買い物ができる。

 でもぼくたちはそれで、本当に自由になっただろうか。

 現実は、そうではないと思う。ぼくたちは便利になったことで、むしろ自由を奪われている。たとえばインタネットの普及で、ぼくたちはいつ何時でも、どこでも働ける。でも同時に、労働時間の制限がなくなった。それとともに、自分の時間を持つ余裕と自由を奪われていないだろうか。

 新しい技術は、表向きにはぼくたちを楽にしているように見える。でも現実は、ぼくたちを技術に縛り付けている。それが今、インターネットビジネスの成り立つ根幹ともなっている。

 ぼくたちはこうして、自由を得たと思いながら、意識しないままに自由とゆとりを失っている。

 市民が社会の中心になるには、市民は本当のゆとりと自由を取り戻す必要がある。市民ばかりではない。市民がゆとりを持つことで、社会全体もゆとりのあるものにならなけれんばならない。

 それが、これからの社会の大前提だと思う。なぜか。

 ゆとりがあれば、何に対しても柔軟に対応できるからだ。ぼくたち市民に時間的にも、精神的にもゆとりがないと、いろんなことに柔軟に対応できない。柔軟性があれば、社会と生活は創造的となる。創造的な環境では、市民も創造的になれる。

 労働についても考えよう。今の労働体制は、男女が平等に働ける環境になっていない。でも労働にゆとりと創造性をもたらせば、出産や育児、介護にも柔軟に対応できるようになる。育児や介護は、女性だけがやるべきのものではない。男女が平等に対応すれば、個人それぞれの状況に応じて柔軟性と創造性が生まれ、男女が平等に、協同で解決できるようになる。

 労働において、企業中心に考えるのではなく、働く市民中心に考えるから、それが可能となる。それは、労働を新しく定義することにもなる。

 生活にゆとりと柔軟性ががあれば、ボランティア活動や市民活動で働く余裕もできるようになる。でもそれは「生産」ではないから、労働ではないのか。いやむしろ市民にとり、企業に雇用されたり、経済活動を行うことで給与や報酬を得ることだけが、労働ではなくなるのだ。

 そうした労働がいずれ、「生産」に類似するものと見なせるような時期がくると思う。何かを創造することは、生産することでもある。それによって直接には、生活の糧を得ることはできないかもしれない。でもベーシックインカムやクラウドファンディングによって資金援助を得ることができれば、報酬がなくても働いて何かを創造できる。

 労働を生活の糧を得るためだけのものとするのは、企業中心に見るからだ。それはもう、時代遅れになると思う。でもそのためには、市民ばかりではなく、社会にもゆとりと創造性が必要となる。

 今社会に、ゆとりはない。だから、ゆとりのあるほうが異常に映る。でも社会全体が市民のゆとりを優先させれば、ゆとりを奪うようなことや、ゆとりのないほうが異常となる。

 市民中心の社会となるには、これまでの社会生活にパラダイムシフトが必要だということでもある。

(2021年12月23日、まさお)

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都市を休める

関連サイト:
ベルリンの都市改革を目指す市民グループ:Changing Cities e:V.(ドイツ語)

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