国際運動会がはじまった

 ドイツの憲法に相当する基本法の第1条第1項に、
「人の尊厳は、傷つけることはできない」
とあります。さらにその第3条第3項には、
「何人も性別、民族、人種、言語、出身、信仰、宗教観、政治観によって差別、優遇されてはならない。何人も障害によって、差別されてはならない」
と記述されています。

 ぼくはこの2つの条文を、ベルリン@対話工房のサイトにおいて何回も引用してきました。何回も繰り返さないといけないのは、たいへん残念なこどです。でも今回も、これを引用します。

1936年に開催されたベルリンオリンピックのオリンピックスタジアムの五輪マーク。この時、オリンピックはナチスによって政治的に利用された

 今日は、東京オリンピックの開催日。ぼくはこのサイトでは、東京オリンピックについてまったく無視するつもりでいました。でも、東京オリンピックを巡って辞任や解任が続き、日本社会全体のうみがドロドロ出てきました。それで、黙っておれなくなりました。

 辞任や解任に追い込まれた当事者たちの言動は、言語道断です。とんでもないことだといわなければなりません。辞任や解任、あるいは謝罪で済むことではありません。でもその根拠として、オリンピック憲章に反すからとしかいえない組織委や日本の政治家も、同じようにとんでもないです。

 オリンピック憲章は、オリンピズムの根本だといわれます。でも、現在のオリンピックはなんですか。営利目的の単なる「国際運動会」です。そんなものに、原則どころか、精神はありません。基本は、どうやってより多くのお金を儲けるか。それでいて、何がオリンピック憲章ですか。

 今回日本で明らかになったのは、オリンピック憲章云々という問題ではありません。人の根源に関わる問題です。その根源とは、上に引用した2つの条文が示しています。人権を守る。差別しない。社会の多様性を守る。それが、人の根源になければなりません。今回のスキャンダルの根本的な問題は、まさしくここにあります。日本社会では、人権や差別の問題に無意識であることが、次から次に露出しました。日本社会がまだ近代化されておらず、現代の国際社会から取り残されてしまった感じがします。

 男女差別、LGBTなど少数派差別、人種差別、弱者差別、障害者差別が、日本では依然として、大手を振ってまかり通っています。政治やメディアをはじめとして日本社会は、これら人権や差別、多様性の問題に対して無頓着です。それでも日本社会には、人権問題に敏感で、人権保護のために活動している方たちもいます。一部メディアも、この問題について真剣に取り組んでいます。でも一般大衆となると、ぼくはとても懐疑的にならざるを得ません。

 その一つの典型が、日本のサブカルチャーだと思います。日本のサブカルチャーをリードしてきたのは、広告コピーです。そこでは、感覚に訴え、販売を促進するための奇抜な表現が求められます。人の根源に触れることは一般大衆から敬遠されるので、避けます。日本でいうタレントの世界では、弱者や過ちを犯した人をおちょくることで、笑を取ります。そうして注目を浴びます。それに対して、誰も疑問に思いません。今回のスキャンダルが元電通関係者やその仲間が引き起こしたのも、不思議ではありません。

 日本社会は、このサブカルチャーに支配されているといっても過言ではありません。この日本のサブカルチャーは、日本でだけ通用するものです。それが日本の独自性だといえばいいように聞こえますが、世界の価値観とは懸け離れた、独りよがりの独自性に陥ってしまったといわなければなりません。

 日本は、とても単一化した社会です。それが、経済のためにイエスマン(兵隊)をつくる教育や、縦割り社会、異なる意見をいえない社会、忖度社会、議論しない社会などのような形で現れています。

 日本が戦中に犯した過去の過ちを顧みないのも、その根底にあると思います。たとえば慰安婦の問題では、なぜ日本の恥を暴くのか、日本を批判するのか、日本は悪いことをしていないなどといわれるのをよく聞きます。日本の大学の先生の中にも、そういう人が何人もいました。

 でも小さい時は、親からウソはついてはいけない、間違ったことをしたら謝りなさいと教わっていませんか。それが大人になると、なぜ潔く悪いことは悪い、悪いことをしたら謝ることができなくなるのでしょうか。

 ぼくは、間違ったこと、悪いことをした時には謝ってはじめて、お互いが同じ位置に立てると思います。だから、お互いに許せます。謝ることができないのは、弱いからです。弱いから、相手より上にいようとします。相手を上目線で見ようとします。そうして、謝らなくてもいいと自分を納得させます。

 日本は戦後、戦争犯罪について遺憾の意を表明していますが、謝罪していません。それは、日本が弱いからに他なりません。だから、批判にも弱いし、真実を隠そうとします。日本は過去の戦争の現実を見ようとしないから、日本は孤立します。日本だけの狭い見方になってしまいます。それでは、国際社会から取り残されて当然です。

 自分の弱さを認め、国際社会と同じ位置に立てないと、日本は変わりません。成熟した社会にもなれません。戦後、戦争責任問題を解決しないまま、そこで時計が止まったままになっています。それでは、人権を守る、差別をしないという人の根源に関わる問題を深く理解することができません。戦争こそ、人権と差別に深く関わる問題だからです。

 今回東京で開催される国際運動会によって、日本社会の問題が露呈されていくのはいいことです。でも問題は、日本社会がそれによって何か学ぶことができるかどうかです。今回の一連のスキャンダルについても、日本においてどれだけの人が人の根本的な問題だと認識することができたでしょうか。スキャンダルにするほうがおかしいと思っている人が、結構多いのではないかと思えてなりません。

 1964年の東京国際運動会は、日本に大きな経済成長をもたらしました。でも今回は、経済効果をまったく期待できません。でもそれが、日本の社会を変えるちょっとしたきっかけをもたらしてくれたとしたら、数々のスキャンダルや政治の無責任さと無能さが露呈したのは、意味があったことになります。ただその代償として、コロナによってたくさんの犠牲が出ないことを願うばかりです。
 
(2021年7月23日、まさお)

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関連サイト:
オリンピイズム/オリンピック憲章

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