「人間の問題」という意識

 ぼくは「さよなら減思力」の記事で、五輪の問題や選挙制度における日本の問題について取り上げてきました。ぼくの『ベルリン@対話工房』のサイトでは、ドイツにおける脱原発のことや、再エネ導入のことも詳しく取り上げています。

 それはこれらのテーマについて、ぼくが長い間に渡ってドイツで取材してきたからだけではありません。

 こうした問題について書くことで、五輪がスポーツのだけのことではない、選挙も議員が選出されるだけの問題ではないことをいいたかったからです。そこには、人権保護や民主主義の問題があります。そして、人権と民主主義が保護されないのは、人間の問題でもあるのです。さらに脱原発にしろ、再エネにしろ、それもエネルギー転換だけのの問題ではありません。

 それは一つに、技術の問題です。これら一つ一つの技術は、ぼくたち一人一人の生活と密接に関わっています。ぼくたち自身が生活において、その技術をどう扱うべきかを考えるべき問題です。

 さらにこれは、人類の進歩の問題でもあるのです。というのは、「再エネいろはブログ」において、ハナコとタロウと対話しているのは、人類がこれまでエネルギー転換とともに進化してきたことを意識してもらうためです。火の発見、農業の開始、移動手段としての家畜の利用、さらに産業革命。これらは、みんなエネルギー転換なのです。

 そのエネルギー転換によって、人類は格段に進歩しました。ぼくはその視点から、今の再エネへのエネルギー転換も見るべきだと思っています。つまり、再エネの普及とともにいずれ、産業革命によって発展した資本主義に変わるポスト資本主義がくるということです。

 それは、当然な結果でもあります。資本主義の基盤になっている石炭や石油などの化石燃料は有限です。それでは、人類はいずれ滅びます。そうならないためには、有限資源に依存しないエネルギー転換が必要です。それが、再エネへのエネルギー転換です。

 ぼくたちは、その過渡期にいます。それを見逃すと、人類の進歩する流れから取り残されてしまいます。しかし日本では、再エネの意義がよく理解されていません。その意味で日本は、危険な状態にあると思います。

 つい最近、日本の大学の研究者で、現在ドイツで1年間研修している知人と日独のエネルギー問題の差について、メールでやりとりする機会がありました。

 そこでぼくたちが一致したのは、日独には「人間の意識と能力の限界に対する認識」に大きな違いがあるということです。日本では、人間は何ができるのか、何ができないのかの意識さえもないのではないかと、疑問に思うことがあります。

 福島第一原発事故の問題にしても、防波堤をこれだけ高くしたから、もう「安全だ」といわれます。日本では原発事故が、津波や地震の問題だったとして解決されているのを見て、ぼくはとても悲しくなります。

 そこには、人間が想定できることには限界があり、それ以上のことが起こりうる可能性があることがまったく理解されていません。人間は、すべてのことに対して万能ではない。そう意識することが、ぼくたち人間が技術を開発して利用する大前提です。

 たとえばスリーマイル島やチェルノブイリの原発事故が、人間の判断ミスだったことを忘れてはなりません。フクシマ事故も明らかに、人間の想定ミスです。つまり、ヒューマンファクターによって重大事故が起こったのです。

 ぼくたちが技術を開発して利用する限り、いつもそのリスクに直面しています。でもぼくたちの社会と生活は、その技術のおかげで成り立っています。だからドイツの社会学者ウーリヒ・ベックは、それを「リスク社会」と読んだのでした。その前に「産業」ということばを追記すれば、もっとはっきりします。

 現在グラスゴーで、環境サミットCOP26が行われています。化石燃料の危険を十分に認識しないまま、ぼくたちは産業革命以降、エネルギーをがんがん使ってきました。ぼくたちはそれとともに、豊かになりました。しかし気候変動は、そのツケ以外の何物でもありません。

 気候変動を引き起こしてきたのは、まさしくヒューマンファクターによる「人間の問題」、人間の意識の問題です。さらにこれから将来、気候変動に対してどう対処するのかも、「人間の問題」、人間の意識の問題です。

 ぼくたちは、それを認識しなければなりません。人間が問題だった、人間が問題になるのだと。

(2021年11月12日、まさお)

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