死者の尊厳を侵してはならない

 今年2024年8月9日に開催された長崎市の平和祈念式典に、駐日米国大使が出席しませんでした。その理由は、長崎市がイスラエル大使を式典に招待しなかったからだと説明されています。

 イスラエル大使が招待されないことがわかると、G7主要7か国のうち、日本を除く米国、英国、フランス、ドイツ、カナダ、イタリア、それにEUの大使が直筆の署名付きで、イスラエルをロシアとベラルーシと同等に扱って式典から除外すれば、高官を派遣できないと脅しの書簡を長崎市長宛に送っています。

 米英の大使は、出席しませんでした。米英を含め主要6か国の大使が出席しなかったと、報道されています。しかしその報道にも、問題があります。

ポツダムのヒロシマ・ナガサキ広場に設置された記念碑と、
その後ろに見えるトルーマンハウス
 ぼくはドイツ人有志とともに、米国トルーマン大統領が1945年のポツダム会談時に滞在した邸宅前に、当時広島と長崎で被爆した石を使って原爆祈念碑を設置しました。そこでは5年ごとに祈念式典を行い、ポツダム市長名で日本、米国をはじめ、アジア諸国の大使を式典に招待します。しかし日本でさえ、駐独大使は一度も出席したことがなく、代理が出席するだけです。他の国からは、ほとんど返事さえもありません。

 大使が出席しなくても、例年大使の代理が出席していて今年も同レベルの高官が派遣されていたら、例年と同じになります。その辺をもう少し詳しく報道しないと、情報不足による誇張報道になってしまいます。

 ただ原爆を投下した当事国の米国の駐日大使が原爆投下犠牲者を追悼する平和式典に参加しなかったのははっきりしており、式典欠席によって問題を政治化させてしまったのは否定できません。

 主要国が国際情勢から、本来世界の平和を求めるはずの式典を政治の道具にしたといわなければなりません。

 原爆投下によって罪のない市民を無差別に虐殺した国が現地において、花一本献花することができないというのだから、原爆投下で犠牲になった人たちを何だと思っているのでしょうね。原爆投下と犠牲者に対して、無責任としかいいようがありません。

 長崎市長がイスラエルを招待するしないではなく、過去の責任に対して正面から向き合っておれば、国際情勢云々で出席か欠席を決めることはできないはずです。式典欠席によって、国際情勢如何で平和式典はどうでもいい、二の次だと判断したことになります。

 ドイツの基本法第1条第1項第1文に、「人の尊厳は、侵すことができない。」と書かれています。昨年2023年10月7日にイスラム組織ハマスがイスラエルに侵攻してたくさんの市民を殺害するほか、イスラエル人を人質にとった事件が起こり、ガザ地区にイスラエル軍が侵攻し、パレスチナ市民が無差別に虐殺されています。それに対するドイツの対応によって、ドイツではこの条文が、有色人種には適用されないことがはっきりしたと、すでに書きました(「ドイツ基本法75年のおかしさ」)。

 ここでいう「人」は本来、差別されてはならず、すべての「人」のことをいいます。さらに「人」には、「死者」も含まれているべきなのです。

 長崎市長への抗議書簡には、イルラエルには自衛権があると書かれています。だからイスラエルを、ロシアとベラルーシと同等に扱ってはならないとあります。

 イスラエルがガザ地区で行っている軍事活動は、自衛権でしょうか。自衛権をはるかに超え、大量虐殺ではないですか。シュタイン元駐独イスラエル大使はドイツのメディアによるインタビューに対し、イスラエルがやっていることはイスラエルのネタニヤフ首相の政治生命を引き延ばす政治的な戦略にすぎないと批判しました。その通りだと思います。

 イスラエルの軍事行動は、自衛権と何か関係あるのでしょうか。ネタニヤフ首相には自分の政治生命が一番大切で、人質の解放にも停戦にも関心がありません。それで何が自衛権ですが。

 ドイツ政府は10月7日直後、自衛権の名目でパレスチナ侵攻を容認する『白紙の同意書』を渡してしまいました。それが、ドイツの国是だといわれます。長崎市長への抗議書簡は、イスラエルに対して自衛権を名目に再び『白紙の同意書』を与えたのと変わりません。

 停戦と人質解放を求める意識は、そこにはまったく感じられません。人の命と死者の尊厳が弄ばれているだけです。

 2011年3月に東日本で、地震と原発事故が起こって少し経ってからのことでした。ドイツ西部のブラウンシュヴァイクで活動する反原発運動家から、被ばくによって亡くなった死者数がまったく公開されていない、むしろいないとされているのはおかしいと、友人の仲介でぼくにメールが回ってきました。

 ぼくはこの人物のことは前々から聞いており、牧師だと知っていました。その時ぼくは、エッと思いました。宗教者でさえも、被ばくで亡くなった人と、被ばくによって亡くなったわけではない人を区別するのかと思いました。

 何回も長いメールでやりとりをして、その人物はようやく自分が宗教者であることを明らかにし、宗教者にとって死者は死者で、区別するべきものではないということをようやく自覚してくれました。

 宗教者にとってだけ、すべての死者が同じであるわけではありません。生きているぼくたちすべてにとって、死者は死者なのです。区別できるものではありません。それが、死者の尊厳を守ることでもあります。

 ロシアによって殺害されたウクライナ市民も、ハマスによって殺害されたイスラエル市民も、イスラエルによって殺害されたパレスチナ市民も、みんな死者以外の何者でもありません。

 原爆投下追悼式典はそれを前提に、世界の平和を求めるものなのです。その式典が政治的に利用されるのを許してはなりません。

 死者には、どう取り扱われようが抵抗することも抗議することもできません。ぼくたち生きている人間が、死者の尊厳を守るしかありません。
 
(2024年8月12日、まさお)

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でもそれが、もう繰り返されないことには責任があるからね』

関連サイト:
長崎市ホームページ
ポツダムのヒロシマ・ナガサキ広場のホームページ

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