福島県石川町でウランを採掘したのはマッチ箱原爆のためだったのか?
終戦を巡る原爆の謎
ぼくは以前、「日本はマッチ箱原爆をつくろうとした?」という記事を書きました。日本において戦中、ドイツでマッチ箱のように小さな原爆が開発されていると報道され、信じられていました。米軍に拘束された日本軍の技官も米国海軍による取り調べで、ドイツの「マッチ箱原爆」について発言し、それに関する資料が日本に1944年に何回も渡されていると聞いたと証言しています。
『ヒトラーの爆弾』という本でドイツが原爆実験に成功していたと書いた著者のライナー・カールシュによると、その原爆は小型だったとしています。米軍がヒロシマとナガサキに投下したものと、比較できるものではありませんでした。
日本では原爆がよく、「マッチ箱一つ」といわれていたことが伝えられています。しかしそれは戦中よりも戦後において、そういわれていたこともわかっています。
前回、福島県石川町で終戦間際、中学生が動員され、ウラン鉱が採掘されていたことについて書きました。ぼくは福島県石川町にいき、その現場も見てきました。ぼくが石川町の取材で一番関心があったのは、ウラン鉱採掘に動員されていた中学生の証言に「マッチ箱一つ」ということばがでてくることです。
動員学徒たちは採掘を指揮する兵士から、「マッチ箱一つ」の原爆をつくるためにウラン鉱を採掘するのだといわれていたといいます。「マッチ箱一つ」で、ニューヨークを吹き飛ばすことができると鼓舞されていました。ここでは、1944年の朝日新聞に掲載されていた佐竹金次陸軍中佐の記事に出てくるロンドンと異なり、ニューヨークが破壊できることになっています。
ぼくは、その証言が本当だったのか、もし本当なら、その時にドイツの原爆のようにとかと、「マッチ箱一つ」がドイツの小型原爆に結びつくようなことがいわれていなかったのか、確認したいと思いました。そのため石川町にいって、当時動員されていた生き証人から直接話を聞きたいと願っていました。

幸い、当時15歳で学徒動員された生き証人前田邦輝に話を聞くことができました。昨年2023年11月にお会いした時、94歳でした。
玄関で迎えていただいた男性がとても若々しいので、最初はご子息かと思いました。居間に通され、その男性がご本人とわかります。話の内容もとてもはっきりしていて、94歳とはまったく思えません。前田さんは保管してある資料をぼくに見せながら、当時のことが次々に口から出てきます。疲れもまったく感じさせません。
当時、「マッチ箱一つ」や「ドイツ」ということばは、まったく耳にしたことがないと、前田さんはいわれました。元学徒動員中学生の中に、後になってそういっている方がいるのは聞いていたといいます。しかし当時実際に聞いたことがないといいます。後から聞いたことを当時のことのように勘違いしているのではないかといわれました。
時が経つとともに、その後に聞き知ったことを当時のことと混同してしまうことはよくあることです。石川町におけるマッチ箱一つの証言も、その可能性があります。貴族院議員田中舘愛橘が「マッチ箱一つ」と発言していたのは戦中ではなく、戦後だったことも明らかになっています。
日本の原爆開発は、1945年6月に断念されました。しかし石川町の中学生たちは8月15日、玉音放送の直前まで作業に駆り出されていました。元陸軍技術少佐として日本の原爆開発に関わり、後に『日本製原爆の真相』を書いた山本洋一元日本大学教授はそれを、軍部の伝達系統に不備あったからではないかと推測しています。
敗戦前の混乱期とはいえ、無責任も極まりありません。動員された中学生は何のために、辛い思いをして毎日重労働に耐えてきたのか。中学生のことは、何も考えてられなかったのだと思います。
(つづく)
(2024年11月17日、まさお)
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福島県石川町立歴史民俗資料館
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