日本はマッチ箱原爆をつくろうとした?

終戦を巡る原爆の謎

 米海軍の取り調べを受けた日本軍技官は、陸軍小隊長から聞いた話しとして、「爆弾はマッチ箱1つ程度の大きさで、半径1000メートル程度の破壊力がある」と、証言しています。この「マッチ箱爆弾」というのは、日本でも戦中、戦後に話題になっていました。

 1944年頃から日本では、「マッチ箱1個」ということばが流布していました。「マッチ箱1個」とは、マッチ箱1つくらいの大きさの原爆を意味していました。その噂を流した主は、貴族議員田中舘愛橘だったとされていました。田中舘愛橘が貴族院議会において、「マッチ箱1個」のウランで、「戦艦を吹き飛ばす事の出来る新兵器の開発が進んでいる」と、発言したとされます。

 しかしそれは、事実ではありませんでした。その噂はむしろ、戦後になってから巷に広まったと見られます。田中舘愛橘が戦時中に、そう発言した記録はありません。それは、原子力研究者の深井佑造さんが立証しています(『「マッチ箱1個」の噂を検証する(前編)』昭和史を語り継ぐ会 昭和史講座第9号 2003年2月)。

 「マッチ箱1個」ということばは戦時中、2つの新聞記事にしか載っていません。1944年3月29日と7月9日の朝日新聞の記事でした。朝日新聞の記者が、理化学研究所の核物理学者グループを取材して書いた記事でした。

 理化学研究所は戦中、陸軍航空本部の委託によって、原爆開発研究「2号研究」を行なっていました。1943年5月から仁科芳雄を中心に、原爆の開発をはじめたのです。

 しかし、それは実際にはうまくいきませんでした。仁科らが原爆開発に失敗したのは、当時の理研の内部文書でもはっきり述べられていました。

 1944年3月29日の朝日新聞には、佐竹金次陸軍中佐の記事「科学戦の様相(下)」が掲載されていました。佐竹はそこで、原子力の利用によって新しい兵器を開発することを訴えています。記事には科学新語欄が付記され、「ウラニウム爆弾」について解説されていました。そこには、ドイツの学者が少量のウランを核分裂させることに成功し、「マッチ箱1つ」程度のウランで、ロンドン市全体をさえ簡単に破壊できると、記述されていました。

 佐竹金次は、陸軍レーダー開発の第1人者でした。その佐竹が、なぜ原爆について言及したのか。そして、原爆に関する情報はどう入手したのか。佐竹がドイツから、原爆開発に関する情報を得ていたのか。それを示す情報は、まだ見つかっていません。

 ただ佐竹金次が、「マッチ箱原爆」の出所だというのは間違いないと推測されます。

 佐竹金次がマッチ箱原爆について言及した時期は、昭和通商がベルリンでイエローケーキを発注した時期と一致します。佐竹は陸軍の人間でした。昭和通商も陸軍によって設置された調達会社です。ドイツの潜水艦U234号に搭載されていた日本向けのイエローケーキは、陸軍向けでした。

終戦後、ニューブリテン島でオーストラリア軍に接収された多数のチハ

 陸軍はドイツから技術移転して、マッチ箱原爆を製造するつもりでいたのでしょうか。米軍の調書では、捕虜だった日本軍技官は、97式中戦車チハについて言及したとされています。ということは、マッチ箱原爆は戦車用だったのでしょうか。

 これを立証する記録は、まだどこにも見つかっていません。さらに、米海軍から取り調べを受けた日本軍技官が、どの程度の情報を持っていて、本当に事実について証言したかどうかもわかりません。

 マッチ箱原爆は、謎に包まれたままです。

 この辺のことは、ぼくの電子書籍『きみたちには、起こってしまったことに責任はない でもそれが、もう繰り返されないことには責任があるからね』に、もっと詳しく書いています。関心のある方は、のぞいてみてください(以下に、リンクあり)。(つづく) 
 
(2021年9月10日、まさお)

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きみたちには、起こってしまったことに責任はない でもそれが、もう繰り返されないことには責任があるからね(書籍案内)

関連サイト:
チハを展示するロシアのクビンカ戦車博物館
きみたちには、起こってしまったことに責任はない でもそれが、もう繰り返されないことには責任があるからね(電子書籍、立ち読みできます)

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