労働の定義が換わる

 前回2回に渡って、ものつくりがデジタル化によって大きく変化することについて書いた。変化するのは、ものつくりだけではない。

 労働とは何か。考え直さなければならない時期にきていると思う。

 たとえば、ぼくがこの記事を書いていることは、労働か。これは情報発信だが、情報発信は労働か、どうかだ。

 ジャーナリストは、何かを書いて情報を発信する。ジャーナリストの仕事は、個人で情報を発信するのとどう違うのか。

 ジャーナリストの情報は、自分で取材することをベースにしている。それで得た情報は、その重要度に応じて選択される。情報の中でも、重要な情報か、そうでない情報かで、ウエイトを変える。情報は通常、一人だけではなく、何人ものチェックプロセスを経て公開される。

 それが、個人が個人意見だけをベースに、あるいはネット上などで得た情報だけで、情報を発信するのと違う点ではないかと思う。そこに、ジャーナリストの情報発信の付加価値がある。

 でもネット上では、この違いはないに等しくなる。情報は、どれも情報だ。ジャーナリストの情報と個人の情報の違いがなくなるのだ。それは、アーティストについても同じことがいえる。アーティストの作品と個人の作品は、ネット上では違いがなくなる。

 同時に、ジャーナリストの情報もアーティストの作品も、ネット上でその権利は守られない。その権利がほとんど無視される。

 ネット上では、発信された情報にいかに多くのフォロアーがつくか、つかないかで、その価値が判断されることが多い。発信した情報では、誰も収益を上げることができない。実際の収益は、広告収入などだ。

 それで、やっていける人はごく少数にすぎない。

 ここで問題は、ジャーナリストであろうが、個人であろうが、情報発信では報酬を得ることができなくなっているということだ。情報発信は、労働ではないのか。

 これまで、労働に対して報酬を支払う、あるいは労働から報酬を得るのが大前提だった。それは、労働によって付加価値が発生するからだ。その付加価値が経済的価値をもたらした。これは、ものつくりも同じだ。

 でも現在、労働だけでは報酬を得て生活することができなくなってきている。これでは、従来の労働の前提と価値が崩れようとしていると思えてならない。

 それでは、ジャーナリストもアーティストも職業として成り立たなくなる。本やCD、DVDは、もう売れない。

 個人の情報発信において中心になる手段は、フェイスブックやツイッターなどのソーシャルメディアだ。ソーシャルメディア自体、個人の情報発信によって魅力を増大させている。しかしソーシャルメディアはそれに対して、報酬は支払わない。情報発信は、労働と見なされていないからだ。

 ぼくはこの現象を、労働を基盤とした社会制度が崩れてきた兆候だと思っている。ここで、労働とは従来の意味での労働だ。労働は付加価値をもたらすものという前提だ。

 デジタル化によって、自宅でも働けるようになった。これが、ホームオフィスだ。ホームオフィスでは、労働時間は制限されず、心理的に24時間常に働いていると感じるリスクもある。

 会社は出勤するもの。それが、企業が労働者を管理する基盤でもある。それが、崩れようとしている。

 これらの状況は、いくつかの事例にすぎない。でもそれは、労働を新しく定義しなければならないと警告していると思う。デジタル化とともに、ぼくたちはどう働いていくのか。働くとは、どういうことなのか。ぼくたちは、もっと考えなければならない。

 ぼくたちは今、その過渡期に立たされている。

(2020年3月12日、まさお)

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