限界費用ゼロが社会を変える

 これまでベルリン@対話工房のサイトでは、再生可能エネルギーに関連して「限界費用」ということばを何回も使ってきた。

 実は、「限界」ということばは誤解を招きやすい。電気でいえば、ある電源で1kWh余計に発電すると、どれくらい追加コストが発生するか。それが、(短期)限界費用だ。だから、追加費用といったほうがわかりやすいかもしれない。

 太陽光発電や風力発電などの再エネ発電では、1kWh追加的に発電しようが、それによってコストは発生しない。燃料を必要としないからだ。それに対して、従来の火力発電や原子力発電では燃料なしに発電できない。発電の追加分には、それだけの燃料が追加で必要になる。

 再エネは燃料を必要としないので、発電電力量がいくら増えても、限界費用は増えない。それに対して燃料が必要な発電方法では、発電電力量が増えれば増えるほど、コストが膨らむ。

 発電コストにはその他に、たとえば発電施設を設置する時に発生する投資費用や、メンテナンス費用なども含まれる。それは、固定費だ。限界費用のない発電方法では、それ以外にコストは発生しない。だから発電電力量が多ければ多いほど、1kWh当たりの発電コストは安くなる。それに対して燃料が必要な従来の発電方法では、発電すれば発電するほど、全体の発電コストが増大する。

太陽光発電では、羊など家畜を使って草刈りをすれば、メンテナンス費用もかからない。

 電気の卸売市場では、この限界費用をベースにそれぞれの電源の電気価格が決まる(ここでは、卸売市場で取引される価格の決まる約定価格ではないので注意)。

 この点で、従来の発電方法と再エネで発電コストを比較するのは、それほど意味があることではない。従来の発電方法が不利になるのがはっきりしている。

 その不利が見えないようにするため、統合コストというものが取り入れられる。統合コストとは、再エネを電力システムに組み入れるために新しく発生するコストをいう。たとえば、再エネのために新しく設置する送電網に必要なコストなどが、それに相当する。固定価格買取制度によって発生するコストも、統合コストに加算される。

 それでは、再エネに不利となる。従来の発電方法には、それに適した既存のインフラがすでにある。新しいインフラは必要としない。ここで統合コストを持ち出してコストを比較するのは、フェアではない。無意味でもある。

 さらに不公平をもたらしているのが、目標設定といわれるものだ。目標設定は拡大する目標を設定するのだから、いいことなのではないかと思われがちだ。でも目標設定とは、新しく登場するものの自由な拡大を、ここまでしか拡大させてはならないと統制するものでもある。それは、従来の発電方法の存続を保護するものとなる。その現実も忘れてはならない。

 「代替エネルギー」ということばもある。「代替」とは、その前に何かあることを前提とし、それに代わるということだ。そのことばの裏には、既存のものの存続を考え、新しく登場するものの自由を制限する意味がある。新しいものが登場すると、既存のものをまず優遇するといっているのと変わらない。

 こうして「代替エネルギー」とされる再エネでは、自由に普及する条件が制限される。再エネには限界費用がないので、自由に競争すれば、どちらが勝つかは明らかだ。だから、自由な競争が妨害される。

 再エネに拡大する自由があれば、限界費用がゼロなのだから、自由に拡大していくのは明らかだ。従来の発電方法に勝ち目はない。

 ぼくはよく、燃料は資本主義の成り立つ基盤だともいってきた。燃料を所有するかしないかで、誰が経済利益を得る特権を持つのかはっきりするからだ。燃料を持たない者に、自由と利益はない。

 燃料は有限である。それに対し再エネでは、エネルギーが永遠にある。エネルギーは無償で、誰にでも手に入り、誰にでも使える。燃料を持たなくても、エネルギーを自由に利用できる。再エネを使うことで、自律性、自主性を得ることができる。それによって、エネルギー自治が可能となる。

 それが、持続可能な社会を可能とする基盤となる。

 ぼくはここに、社会が大きく変わるポテンシャルを感じる。これからの経済は、限界費用のないエネルギーを基盤にして成り立つ。エネルギーにおいて、コストの差は発生しない。

 同じことが、デジタル化についてもいえる。ある物を複製、保管、転送することに対して、何回複製しようが、どれだけの期間保管しようが、何回転送しようが追加コストは発生しない。コストに差が発生するのは、保管する容量を決めるはじめだけだ。その点で、再エネととてもよく似ている。

 再エネとデジタル化が並行して進んでいるのは、当然なのかもしれない。

 ぼくたちは今、限界費用ゼロの社会に入ろうとしている。そこでは、コストに差がない。これまでの経済は、差があるから成り立ってきた。その差がなくなると、競争はできるのか。あるいは、何で競争するのか。競争とは何なのか、問い直さなければならない。

 そう思うと、競争で成り立つ資本主義はこれからどうなるのか。ポスト資本主義の時代が、もう遠くないところまできているのかもしれない。

(2021年6月24日、まさお)

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関連サイト:
限界費用を正しく使い分けられますか?(GLOBIS知見録)

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