国外で自分らしく死ぬために
人生の終末期に差し掛かると、どうしても死のことが気にかかってくる。特に国外で暮らしていると、生活環境どころか、死に対する思いも異なる。死に対する対応の仕方も違う。死んだ時のため、自分の暮らしているところにおける手続きや規則なども、事前に知って備えておいたほうがいい。
それは、自分自身のためでもある。ここでは特に、自分が生きている時に自分で判断できなくなったり、死後どうするかが問題となる。その時に備え、自分の意思をはっきりさせる。死に備えて準備をして、その時の面倒も見てもらう代理人を決めておきたい。そうして、代理人の負担ができるだけ軽くなるようにしておきたい。
それを書き留めておくのがよく、「エンディングノート」とかいわれる。しかしぼくは、このこどばが好きではない。特に「エンディング」ということばがしっくりこない。適切ではないとも思っている。ドイツにおいて日本人向けに高齢者の支援と介護情報を提供しているデーヤック友の会(DeJaK)では、『備えファイル』として死に向けた準備のためにしておくべきことをまとめている。
確かにそうなんだけど、それもどうも、ぼくにはしっくりこない。

ぼくはこれまでベルリンで、友人2人の代理人として死を迎える準備と死後の後片付けをしてきた。ぼくはその時の体験から、そう感じている。かといって、どういうことばが適切かとなると、どうもうまく合うことばがない。
ドイツにいると、存命中に自分で判断できなくなったらどうするか、死後どうするのかなど、規則があるのは確かだ。その規則に応じて、対応する。ただそれは規則であって、それにぴったり合うようにきちっと準備しておかなければならないわけではない。そのために準備してなくても、後でどうにでもなる。ただその時、後片付けをする人の負担が増えるのは間違いない。
かといって、後片付けする人の負担を考えてこう準備しておくべきだというのには、ちょっと違和感がある。後片付けする人の負担を軽くするかどうかは、本人の意思次第でもある。本人と代理人の問題でもある。それに高齢になればなるほど、そんな準備は億劫だし、無理になることもある。だから早めに準備しておこうというのが、たとえば『備えファイル』の意図だと思う。
しかし規則は、絶対ではない。そういうと、いや規則にしたがうしかないのだからおかしいといわれるかもしれない。でも死後の後片付けは、準備してなくても終わるし、終わらせるしかないのだ。それで、何とかなっている。
そう気軽に思うことも大切だと思う。そうしないと、エンディングの準備をしないといけないとプレッシャーになり、準備が重荷になる。それでは、準備は進まない。
ぼくはむしろ、自分らしく死を迎え、自分らしく死に、自分らしく死後の後片付けをしてもらうことだと思っている。そう思って、自分の死を自分で決めておく。人任せにしない。
日本では、自分で判断できなくなっても、ケアマネージャーがしっかりしている。死後も、葬儀屋が何でも取り仕切ってくれる。だから家族や後を委託された人の負担は、ドイツにいるよりは軽いと思う。
逆にいえばその分、自分で死を決める枠が狭いのではないだろうか。型通りにしか死ねない。それに対してドイツでは、規則がしっかりしているが、自分で決める枠が広いと感じる。ただその反面、後で面倒なことになってしまうリスクがあるかもしれない。
そのリスクを最小限にするには、規則をしっかり把握しておき、面倒なことにならないようにしておくことも必要だ。そうしておいて、自分らしく死にたい。
ただその規則はドイツの各地で、微妙に異なっている。ぼくがこれからまとめておくのは、ベルリンで体験して知ったものなので、ベルリンの場合である。それが、ドイツ全体で共通なものではない。それも、はっきりさせておきたい。
ぼくがまとめるのは、代理人から見て、自分らしく死ぬために最低限しておいてほしいことだと思っていただきたい。定期的とはいえないが、順次まとめて残しておきたい。ぼくの体験を共有してもらえればと思う。
2023年8月21日、まさお
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関連サイト:
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