アフガン派兵は何をもたらしたのか

 ベルリンから南西に位置するポツダム近郊の村に、ドイツ国防軍の基地があります。ハインリヒ・フォン・トレスコウ基地。基地の名称は、戦中ヒトラー暗殺計画を主導した一人ハインリヒ・フォン・トレスコウ陸軍少将に由来しています。

 ベルリンからだと車で約1時間。そのハインリヒ・フォン・トレスコウ基地に現在、ドイツ国防軍の国外派兵を指揮する司令本部があります。

 基地の敷地内に国外派兵中に犠牲となった兵士の慰霊施設があるというので、ぼくはその施設を取材したことがあります。慰霊施設には、いくつもの追悼記念碑がありました。記念碑は、兵士が派遣されていた戦場基地に設置されていたものです。戦場から引き上げる時、司令本部基地内にある慰霊施設に移設されたのでした。

 慰霊施設は、「(戦没兵士を)記憶する森」と命名されています。慰霊施設は、大きな森に囲まれています。その森は、故人を偲ぶことができるように、亡くなった兵士の家族や同僚兵士などに解放されています。

 森では木それぞれに、亡くなった兵士の写真や記念の品物、追悼プレートなどが置かれています。その中で、一人の兵士の顔写真がひときわ目立ちました。兵士の名前は「フローリアン・パウリ」。写真の下にプレートがありますが、フローリアンさんがどうして亡くなったのか、書いてありません。

フローリアン・パウリさんの追悼写真

 フローリアンさんがどうして亡くなったのかを知ったのは、ヨハネス・クレアさんを取材したからでした。ヨハネスさんは、アフガニスタンからの帰還兵。兵役後に短期志願兵となり、2010年6月から7カ月間、アフガニスタンで歩兵部隊にいました。アフガニスタンに派遣された時、25歳でした。部隊は主に、現地でのパトロールと地雷の撤去、護衛を任務としていました。部隊の先頭に立って、敵を銃で狙い撃ちするのがヨハネスさんの任務でした。

 ヨハネスさんは2011年1月帰還し、退役します。すぐに、よく眠れず、悪夢を見るようになりました。自分がいつも、すごい緊張状態にあることもわかりました。ヨハネスさんは、自分のアフガン体験を日記風に体験記として出版し、忙しくしていました。緊張状態にあるのは、そのせいだと思っていました。自分の異変には気づきません。

 それに対して友人や家族は、帰還後ヨハネスさんが別人のようになったと思っていました。でもヨハネスさんは、それを認めようとしませんでした。

 帰還して、もう2年経ちました。戦没した兵士の記録を読んでいる時です。フローリアンさんの亡くなる経緯の書かれた一節にきました。戦地では、保健兵だったフローリアンさんから手当を受けたこともあります。ヨハネスさんはフローリアンさんを保健兵として信頼し、仲のいい友だちになったと思っていました。

 まもなくして、上官からフローリアンさんが亡くなったことを知らされます。フローリアンさんは保健兵として、気絶して倒れた現地住民を助けようとしたのでした。すると、突然爆発。即死でした。住民に見せかけた自爆テロでした。

 基地では、フローリアンを追悼する簡単な祭壇がつくられました。ヨハネスさんは祭壇の前に座り、一人でギターを片手にフローリアンさんに歌を聞かせていました。涙が流れるばかりで止まりません。

アフガニスタンにいる時のヨハネス・クレアさん(写真は、ヨハネスさん提供)

 ヨハネスさんがフローリアンさんのことを思い出していると、突然、眼前にアフガニスタンにいた時の銃撃戦のシーンが現実のように映し出されます。からだがガタガタ震え、手のひらは脂汗でびっしょりとしていました。ヨハネスさんは、すごい興奮状態に陥っていました。

 これが、ヨハネスさんがはじめて体験したフラッシュバックでした。それをきっかけに自分の異変を受け入れ、診察を受けることにします。心的外傷後ストレス障害(PTSD)だと診断されました。さらに後で、うつ病を併発していることもわかります。

 ヨハネスさんは、ドイツ北部のハンブルク近郊で暮らしています。自宅からベルリンにくる時は、自分の車でくることしかできません。バスや電車など公共交通に乗ると、ちょっとした大きな音を聞くだけで、パニック状態になります。

 サッカーの試合やコンサートにも、行けなくなりました。人のたくさん集まるところにいくと、怖くてたまらないからです。広場恐怖症です。爆竹や花火の音を聞いても、フラッシュバックが起こります。夜は、二、三時間ですぐ目が覚めます。悪夢も見ます。からだ中、汗びっしょりになっていることもよくあります。

 ベルリン国防軍病院に、トラウマセンターが設置されています。そこで精神科の軍医に聞いたところ、すごい緊張状態が長期に続いたことと、戦場での恐怖がPTSDを引き起こす要因だといわれました。ドイツ国防軍全体で、年間平均約700人がPTSDの治療を受けています。そのほとんどが、アフガニスタンからの帰還兵です。うつ病などその他の精神障害を含めると、ドイツ国防軍では兵士の約20%が何らかの精神障害で治療を受けています。

 軍医は、「PTDSは治る」といいました。「でも何らかのきっかけで、再発する危険が高いのも事実だ」と、語りました。

ベルリン郊外であったドイツ国防軍協会のイベントで、アフガニスタンでの体験と精神障害の問題について話すヨハネスさん

 ドイツ国防軍は、2001年12月に成立した「国際治安支援部隊(ISTAF)」に北大西洋条約機構(NATO)の一員として参加していました。ISTAFミッションは、2014年末で終了します。ドイツの戦闘部隊は撤収しました。それまでに、ドイツ兵55人が犠牲になりました。

 でもアフガニスタンの治安当局と軍を教育する目的で、その後もドイツ兵の一部がまだアフガニスタンに残っていました。その教育部隊も今年2021年6月末、すべて帰還しました。米軍をはじめとしてNATO軍が今年2021年5月から、撤退をはじめたからです。7月はじめには、すべてのNATO軍兵士がアフガニスタンから撤収したと見られます。

 約20年間にドイツ兵アフガニスタン派遣にかかった経費は、120億ユーロ(約1兆5000億円)を超えました。全体で、59人の兵士が亡くなりました。

 ドイツ政府は当初、アフガンへの派兵は復興目的だとしていました。でもそれが、タリバン武装勢力がテロ攻撃に転じたことから、アフガニスタンはとても危険な戦場に変わります。復興どころではなくなります。平和もありません。現地は、戦争状態でした。お互いに向き合って前線で戦う戦争は終わり、戦争はテロ化、ゲリラ化していました。

 ヨハネスさんは、「戦地に前線というものはない」といいます。軍服をきているわけではないので、「誰が敵かもわからない」と語ります。いつどこで撃たれるかわかりません。その状態が、兵士を四六時中緊張状態に陥れます。兵士の神経の休まる時間がありません。

 ドイツをはじめNATO軍は、アフガニスタンに平和をもたらし、民主主義国家を建国しようとしました。でもそれから、何が残ったのでしょうか。現実は、タリバンのテロ攻撃に応戦するだけで、アフガニスタンを変えることができませんでした。NATO軍撤兵後、タリバン勢力が再びアフガニスタンを制圧してしまうと見られます。

 変わったのはむしろ、ドイツです。国外派兵が常態化し、ドイツ兵士死亡のニュースが当たり前になります。ドイツ兵による民間人殺害が政治問題になります。ドイツ国防軍のトラウマセンターが、ドイツ全国に設置されるようになりました。

 ドイツ兵が最終的にアフガニスタンを去ると同時に、最後の戦没兵士の追悼記念碑もアフガニスタンから、国外派兵司令本部のあるハインリヒ・フォン・トレスコウ基地に運ばれてきました。

 ぼくが戦没兵士の慰霊施設を取材した時、案内してくれたのは、司令部広報担当のフローリアン・レーベル少佐でした。ぼくは今、少佐があの時、記憶する森が手狭になれば、周りにはたくさん森があるので、施設はいつでも大きくできますと説明してくれたのを思い出しています。
 
(2021年7月02日、まさお)

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関連サイト:
ドイツ国防軍(英語)

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