ドイツ潜水艦が日本に輸送しようとしたイエローケーキの成り行き
終戦を巡る原爆の謎
終戦間際の1945年4月にドイツの潜水艦U234号がキール港からイエローケーキ(酸化ウラン)を搭載して日本に向かった話について書いてきたが、その間に話がいろいろな方向にいってしまいました。
ここで、ドイツの潜水艦U234号が搭載していたイエローケーキに関して、現在わかってきたことをまとめておきたいと思います。
日本で原爆を製造するために必要なウランをドイツから調達することになったのは、日本陸軍が原爆製造に必要な多量なウランを独自に手に入れようとしたからでした。
日本の原爆開発は、陸軍の要請で仁科芳雄教授を中心として理化学研究所の二号研究と、その後に海軍の要請で京大の荒勝文策教授を中心に行われたF研究によって進められていました。
二号研究は1941年、理研に対して正式に依頼され、1943年はじめに仁科教授が、開発は可能だとの報告書を提示しています。F研究はそれに対し、1945年前後に依頼されています。
科学者による開発はまず、理論を実践に移すためのものでした。それだけでも、必要な資材を調達するのにたいへん苦労されています。しかしそれだけでは、実戦には使えません。実戦に使えるだけの大きな原爆を製造しなければなりません。
そのためには、十分なウランが必要です。陸軍はやみくもに、ウランを含む鉱石を探しました。たとえば日本の福島県石川町、朝鮮半島などでウランを含む鉱石があることがわかりました。しかしいずれも微量で、原爆を製造するには不十分でした。
たとえウランを入手しても、核分裂するウラン235はその中に0.7%しか含まれていません。いかにたくさんのウランが必要なのかがわかると思います。
キュリー夫人は、ピッチブレンドという鉱石からラジウムを発見しました。ピッチブレンドの中には、ウランが含まれているはずです。陸軍は、ドイツとの国境沿いで、ドイツが占領するチェコスロバキアのヨハネスブルク(ヤヴォルニク)にラジウム鉱山があることを知ります。

ドイツも原爆を開発しています。陸軍で原爆開発を担当する航空本部総務部長の川島虎之輔少将は早速、ベルリンの大島浩大使にドイツ政府にピッチプレンドを分けてくれるように交渉するよう依頼しました。1943年のことでした。
しかしドイツ政府は、断ってきました。それに対して川島少将は、日独同盟を盾に強く交渉しろと要求します。川島少将はここで、ピッチブレンド2トンを送るよう要請しています。
この川島少将による大島大使への要請については、川島少将自身が戦後そう証言しています。二人がやりとりした電報はすべて、米国に盗聴されていました。米国には、その記録も残っています。
それに基づき最終的に、ドイツの潜水艦に精製された酸化ウラン(イエローケーキ)が搭載されていたのでした。そのイエローケーキは1944年3月、陸軍の調達会社昭和通商会社によって発注されています。発注量は1トンでした。発注請書からそれが、高純度のイエローケーキであったことが今回わかりました(「日本行きの酸化ウランは高純度のイエローケーキだった」)。
発注請書によると、イエローケーキは同年6月に納入されています。しかしそれがどう、フランスのロリアン港に輸送されたかはわかっていません。イエローケーキは、ロリアン港目指して航海していた日本の潜水艦伊52潜がピックアップして、日本に持って帰る予定でした。
しかし伊52潜は1944年6月、大西洋で米海軍に攻撃されて沈没してしまいます。伊52潜の沈没を確認後、ドイツは9月になって潜水艦U234号を輸送用に改造しはじめます。改造が終わった後の翌年1945年4月、U234号はイエローケーキ560キログラムを搭載してドイツのキール港から日本に向かって出航します(「ドイツの潜水艦は代役だった」)。
今回、昭和通商会社に関連する文書がドイツで見つかったことで、川島少将による要請からドイツの潜水艦U234号でイエローケーキを輸送するまでの経緯が、時系列的にはっきりとつながりました。イエローケーキは日本陸軍の要請で調達され、最終的にドイツの潜水艦で日本に輸送することになったのでした。
(つづく)
(2024年5月08日、まさお)
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