市民の軽いフットワークを生かしたい

 ぼくは、脱炭素社会を実現する中心は市民だとした。市民はトップダウン型に上から指示されるのではなく、市民は市民同士の横のつながりを強化して、自立してボトムアップ型に動く。

 たとえば、再生可能エネルギーで発電された電気を固定価格で買い取る制度(FIT制度)を思いついたのは市民だった。ドイツの市民電力会社EWSシェーナウのことは、日本でもよく知られていると思う。当時、市民が配電網を買い取って電力事業を行うとは、誰も考えてはいなかった。

 市民有志が共同で、風力発電や太陽光発電を開始した例もたくさんある。そこから、市民の組織形態としてエネルギー協同組合も広がる。集合住宅では、住民が共同で発電と熱供給を行い、自給自足しているケースも増えている。

 これらのことは、政治がそうしなさいと決めたわけではない。市民がアイディアを出し合って、市民自らがそのアイディアを実現していった。むしろ政治は、市民の活動を追いかける形で必要なところで規制しなければならなくなっている。

 これが、前回書いたボトムアップ型社会でもある。市民のほうが政治よりも先を走るのだ。市民はこうして、社会を変える原動力となる。

 しかしここで、重大な問題がある。それは、何だろうか。

 市民が先行するのにブレーキをかけるのも、市民だということだ。既存の構造、既存の考え方に固執し、それを変えたくない市民がたくさんいるからだ。ぼくはこう、分類するのは好きではない。でも敢えて一般的に使われていることばを使えば、前者は進歩的、後者は保守的といわれる。

 たとえば発電についていえば、火力発電や原子力発電の既存の大規模発電でないと、安定供給ができないと信じ込む市民がたくさんいる。これは、保守的だということだ。たとえ進歩的でも、再エネによるエネルギー転換を支持するけど、自宅の近くには風力発電施設を設置してほしくないという市民もいる。

 この現実は、避けることができない。ただここで、保守派と進歩派の両者をつなぐのが、前回書いた「社会的コンセンサス」だと思う。そこでぼくは、それを実現する手段を規定するべきではないと書いた。

 ぼくたちの緊急な課題である脱炭素化においては、それを実現する手段は多様であるほうがいい。その手段に関しても、保守派と進歩派の間で合意できないことも多いと思う。でも気候変動の現実を見れば、脱炭素化しなければならないことに対しては、それほど反対されないと思う。だから脱炭素化することについてだけ、社会的合意を得るのだ。

 それによって、進歩派が自由に活動できる基盤ができる。

 脱炭素化については、その目標を達成する時期が数10年も先であるのも問題だ。この数10年という時間は、脱炭素化という巨大な課題を考えると、実際にはとても短い時間だ。でも数10年も先のことだと思うと、どうしてもまだいいのではないかという甘えも生まれやすい。

 これも、重大な問題だ。

 しかし脱炭素を実現するには、市民の責任だと思うくらいの切羽詰まった責任感が必要だ。それくらい、ぼくたちに残されている時間は短い。環境サミット(COP)のような国際政治のプロセスも必要だ。でもそれに任せていては、間に合わない。時間がかかりすぎる。

ドイツ北西部のザーベックには、個人の住宅の屋根のほとんどに、ソーラーパネルがせっちんされていた

 市民のいいところは、政治的なプロセスとは関係なく、身軽に軽いフットワークで動けることだ。それを利用したい。すぐにはじめることのできるところから、市民が自立して勝手にはじめればいい。市民が自宅の屋根にソーラーパネルを設置して、再エネで発電をはじめればいいのだ。それが、社会を動かす原動力となる。そのソーラーパネルがたくさんつながれば、たくさんの電気を供給できる。こうして、市民の輪をつなげて大きくしていけばいい。

 そうなると、政治はもう干渉できない。

(2021年11月04日、まさお)

関連記事:
トップダウン型社会からボトムアップ型社会へ
社会を変えるのは市民だ
持続可能な社会の中心は市民

関連サイト:
ドイツの市民電力会社 EWSシェーナウ(ドイツ語)

この記事をシェア、ブックマークする

 Leave a Comment

All input areas are required. Your e-mail address will not be made public.

Please check the contents before sending.