抗議文化とは何か
ぼくは、2011年3月の福島第一原発事故前も、ドイツで抗議デモなど反対運動をいろいろ取材してきた。ただ3.11後のドイツにおける反原発デモはやはり、すごくダイナミックで、一般市民の「原発はゴメン」という声が強く伝わってきた。
その時の反原発デモはドイツの反原発デモ史上、最大のものだった。
ドイツでは、市民がデモに繰り出すのを「抗議文化」という。市民が政治に不満があれば、それに黙っておらずに、抗議デモなどの形でどんどん表に出てはっきりと批判する。
東ドイツの体制が崩壊した民主化のプロセスではよく、デモに出るのを「道路に出る」といいった。独裁体制に不満なら、政治的な圧力に負けずに、市民が表に出て力を合わせる。そうすれば、秘密警察による弾圧に負けることもない。
「道路に出る」とは、そういうことだ。
1989年11月4日に東ベルリンであった民主化デモ。その5日後にベルリンの壁が崩壊した(ベルリン@対話工房のインスタグラムの投稿から)
ぼくはドイツで、こうして抗議する市民のパワーを目の当たりに見てきた。すごいなあと感じながらも、日本でもこうした抗議文化が必要だなと思っていた。
しかし3.11から10年以上経った現在、この抗議文化は、単に抗議してデモにでるだけのものであってはならないと思っている。
反対運動によって抗議して、政治に圧力をかけるのも必要だ。でもそのためには、デモにかなりの人が集まらないと、大きな力にはならない。反対デモは抗議文化の一部だが、それだけでは不十分だと思う。
一般的に、市民の意見はとても多様だ。その多様性が自由な社会を形成する。その多様性の中で、あることに対して反対だと一方的に主張するだけでは、多様な意見をもっている市民からは受け入れられない。それでは、何も変わらないと思う。
ぼくはよくボトムアップといっているが、それは家庭や友人のサークル、職場など生活や身の回りで少しでも何かが変わることだ。それは、現実をよりはっきりと知ることによって変わるかもしれない。あるいは、誰かの意見を聞いて自分で考えるきっかけが生まれ、それによって変わるかもしれない。
お互いに違う意見を持っていても、お互いに対話をはじめないと何も変わらない。そこでは、お互いの意見を尊重し合わない限り、対話は成り立たない。反対意見を押し通すだけでは、対話にならず、何も変わらないで終わってしまう。
お互いがそれぞれを尊重しておれば、対話によって、相手方が新しい知識を得るかもしれない。あるいは、何か自分で考えるきっかけを生むかもしれない。そうして、お互いが影響し合う。
一人一人が考える。それが大切なのは、ぼくはいろんなところで書いてきた。それによって、どんなに小さなことでもいいので、何か変化が生まれればいい。ぼくはこの間、抗議文化ではそこまで考える必要があると思うようになった。
市民が中心となる社会を形成していくには、抗議文化について市民一人一人がそこまで自覚したい。
(2021年11月18日、まさお)
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