こどもと家族にやさしい社会

 主に先進工業国において、こどもの出生率が減る傾向が見られる。育児するには、お金と時間がかかる。働くことに対するプレッシャーも強い。育児は、そう簡単なことではない。夫婦のどちらかが犠牲にならなければならない。それは、介護にも当てはまる。

 コロナ禍で、幼稚園や学校が休校になると、こどもの教育という点ばかりではなく、親が仕事をできなくなるという経済的な問題にまで発展することがわかった。コロナ禍において、在宅勤務が増えてもかわらない。自宅ではこどもがいると、むしろ育児で仕事ができなくなる。

 コロナ禍によって、幼稚園や学校が教育の名目ばかりではなく、経済が成り立つために役割分担をしていることが明らかとなった。

 ここでこどもの問題を取り上げるのは、次世代を担うこどもが生まれないことには、社会と経済が持続可能にはならないからだ。それは、世代間の役割分担だともいえる。

 そういうと、こどもを経済や社会の駒として見ているだけではないか。不道徳だといわれるかもしれない。

 でも、それが現実だ。

 むしろその現実を直視して、どうすればこどもの出生率が上がり、社会が持続可能になるのかを考えたほうが、道徳的なのではないだろうか。そのほうが、現在の格差や世代間の格差を小さくすることができる。

 こどもの出生率を上げるには、こどもと家族にやさしい社会造りが求められる。そういうと、簡単なように見える。でも現実は、そう簡単なことではない。

 ジェンダー問題がクローズアップされ、男女平等の必要性が謳われている。しかし現実は、そうではない。社会には今だに、男は外で稼ぎ、女は育児するという保守的な考えが、まだまだ存在する。

 こどもと家族にやさしい社会造りをするには、その意識をまず、破壊しなければらない。

 でもそういうと、そんなはずはないと思う人も多いと思う。しかし育児と介護の問題が、男女平等に関わる問題であることは間違いない。育児も介護も、男女が同等に、共同で対応しない限り、問題は解決しない。片方だけがその負担を負うのは、解決策ではない。それではどちらかが、犠牲にならなければならない。

 育児や介護において、男女が平等に対応できる制度造りが必要になる。その点では、改善されてきた。でも、まだまだだといわなければならない。制度が整備されても、企業など社会がそれを心から受け入れないと、制度があっても、制度は機能しない。

 社会が市民中心になり、こどもと家族にやさしい社会になるには、市民が労働者として、決まった時間に拘束されず、柔軟に働くことができるような環境が必要となる。柔軟に働くとは、市民自身とその家族の状況に応じて、柔軟に働けるということだ。

 ここで環境とは、単に制度上の環境ではない。社会の意識と金銭的な支援体制もいう。ただ現実問題として、制度改革と金銭的な支援よりも、意識改革のほうに時間がかかるのは避けられない。制度を利用しようとしても、社内や社会から白い目で見られては、制度は利用できない。

 社会の意識改革には、社会から白い目で見られても、それを貫徹する先駆者が必要となる。市民に、それをやり通すだけの勇気と強い意志が求められる。市民中心の社会とは、何もしなくて転がってくるものではない。市民自身が自分でつかみとるものだ。片足つっこんだら、もう片足も入れる。勇気と強い意志も持ってやるしかない。

(2022年1月20日、まさお)

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関連サイト:
育児・介護休業法について(厚生労働省)

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