マイ箸、マイカップで東ドイツ時代に逆戻り

 東ドイツにいたころ、「コンビナート」といわれる巨大な工場において日系企業の仕事をしていた。たとえばベルリンの壁が崩壊する直前には、東ドイツ中部にある「ロイナ工場」という化学・石油精製工場において、プラント建設プロジェクトに関わっていた。

 コンビナートの工場内では、敷地内にある大きな社員食堂で食事をする。はじめて工場の社員食堂で食事をする時、自分専用のナイフとフォーク、スプーンのセットであるカトラリーを持っていくようにいわれた。

「カトラリー」とは、食事用ナイフなどの総称。ナイフとフォーク、それにスープ用の大きなスプーンとデザート用の小さなスプーン。当時はそれで、ワンセットだった。布製チャック付きのの細長い袋に入っている。カトラリーはすべて、アルミ製だった。とても軽かった。持ち歩くのも問題ない。

 それを事前に用意しておいて、社員食堂に持参する。カトラリーセットを持っていないと、社員食堂では食事ができない。社員食堂に、ナイフやフォークなどが置かれていないからだ。食堂だから、変に思うかもしれない。でもそれが、普通だった。

 社員食堂の建物に入ると、出入り口横に大きな洗面台がある。そこには、水道の蛇口がいくつも並んている。最初は、なぜかわからなかった。手でも洗うのかと思った。そうではなかった。

 社員食堂で食べ終えると、使ったナイフやフォークをそこで水洗いするのだ。洗剤はどこにもない。水洗いするだけだった。水洗いすると、そのまま布の袋にしまう。

 それが日課だった。

 今でいえば、「マイナイフ」、「マイフォーク」、「マイスプーン」で食事をするということか。当時東ドイツには、使い捨て食器はなかった。スレンレス製のナイフやフォークも、贅沢品だった。屋外でビールを飲む時、ビールを買うと、ビールはガラスのコップに入ってくる。それを受け取る時、コップのデポジットを一緒に支払った。コップを返すと、デポジットが返ってくる。ビールが安いので、デポジットのほうがビールよりも高かった。

東ドイツ時代の瓶詰め製品はこんな感じだった。ベルリンのカルチャー・ビール醸造所(Kulturbrauerei)の展示会で撮影

 そういう時代だった。ゴミは出さない。洗剤も使わない。そういうと、環境にやさしいように聞こえる。でもそれは、東ドイツで物不足が深刻だったからだ。使い捨てのプラスチック製食器をつくるだけの原油はない。原油はできるだけ、燃料として精製する。国内で消費するよりも、西ドイツに輸出して外貨を稼いだ。

 ドイツでは今、昨年2021年7月3日から使い捨てのプラスチック製のカップ、食器、ナイフ・フォークなどのカトラリー、ファーストフード用容器、ストロー、攪拌棒、風船ホールダーの使用が禁止されている。発泡スチロール製もダメだ。

 これは、プラスチックによる環境負荷を抑えるため。だがどことなく、東ドイツ時代に逆戻りしたような気分にもなる。ああ、ノスタルジー。

 わが家では、ビールやミネラルウォーター、ワインは何回もリユースされるリターナブル瓶に入ったものを飲んでいる。東ドイツ時代には、缶ビールや缶ジュースはなかった。飲料には、リターナブル瓶を使うのが当たり前だった。わが家ではそれを、今も続けている。

 今ベルリンでは、コーヒーや紅茶をテイクアウトする時、自分のカップかボトルを持参しているかと、聞かれることが多くなった。ベルリンの高級磁器KPMまで、高級マイカップを販売するようになった。時代は変わったのだ。

ぼくのマイ箸と連れ合いのマイカップ

 マイカップを持っていないと、デポジットを支払ってカップを「買う」ことになる。カップは飲んだ後に、返してもいい。そうすると、デポジットが返ってくる。あるいはそのまま持ち帰って、「マイカップ」にしてもいい。

 ぼくはいつも、マイ箸をリュックサックに入れている。でもコロナ禍で、取材で外出することも、外食することも少なくなった。ぼくのマイ箸は、リュックサックの中で眠っている。

2022年2月05日、まさお

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関連サイト:
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