ふるさとを再発見する
(2022年)10月24日に、母のいる緩和ケア病棟にいく。病院入口受付前にあるボードの前に立つと、体温が自動測定される。36.0度と表示された。ぼくにしては、熱が低い。どうしたのだろう。
緩和ケア病棟のナースステーションで、すでに記入してあった面会票と健康チェック表を手渡した。健康チェック表には、実家にきてから毎日2回体温を測定した結果が記入されている。
すぐに、抗原検査の結果を見せるようにいわれた。検査結果は、スマホで撮影してある。ぼくのスマホは古いので、ちょっと時間がかかる。日にちと時間が表示されているタブレットパソコンの画面上にテストカードをおいて、撮影してあった。
問題なかった。すぐに医長先生と面談。母の容態と今後のことを話し合った。
緩和ケア病棟の役割が、病棟でのケアから在宅ケアに橋渡しすることにあることがわかる。準備してあれば、いつでも在宅ケアに切り替えてもいい。在宅ケアがうまくいかないと、すぐに病院に戻ってきてもいい。そう説明された。
面会についても、ぼくがドイツからきているので、できるだけたくさん会ってあげてくださいといわれた。状況に応じ、フレキシブルに対応されているのがわかった。ただ病院側からは、面会において厳格な対応が求められているだと思う。
だが緩和ケアでは、マニュアル通りにはいかない。患者それぞれに独自の事情があるからだ。病院側の規則と現実の狭間で、どうするのが適切か苦悩している様子が伺えた。
ぼくはこどもの時、祖父母の元で育てられた。それは、複雑な家庭の事情によるものだった。ぼくが祖父母の元を離れ、両親と一緒に暮らしはじめたのは、小学校5年の秋からだ。父は、小学校の卒業式の日に亡くなった。
その後は、母が一人でぼくたち兄弟を育ててきた。ただ父の死後、複雑な家庭環境はより複雑となる。そのためかぼくは小さい時から、人のいやらしさを目の当たりにしてきたと思う。それが、ふるさとを嫌悪する原因にもなっている。
田舎町では今もそうだと思うが、片親だということから、何やかやと差別された記憶がある。ぼくは、それもいやだった。
母は母で、ぼくが小さい時に両親と一緒に暮らせなかったこと、家庭環境が複雑でぼくが苦しんできたことを不憫に思っている。ぼくは常々、そう感じていた。
それだけにぼくは、母の生きている間に、これだけは伝えておきたかった。母がそう思う必要がないこと、母が自分自身の人生を犠牲にして、二人の息子を懸命に育ててくれたことにたいへん感謝していることを。母には、感謝が尽きない。
弟が一度話したはずだが、母の置かれた状況についてももう一度はっきり説明しておくべきだと思った。母が弟のいったことをどの程度理解したのか、半信半疑だったからだ。
ぼくは意図的に、母に一人で面会する機会をつくった。
ぼくは母に、今の容態をどういう状態か、どうしてこの病院にいるのかかわっているかと聞いた。母はわからないという。「(弟が)何もいわんもん(富山弁:何もいわないよの意」といった。ぼくは、がんはもう治療できず、今この病院にいるのは、苦しまないように、痛い思いをしないで済むようにするためだといった。そのために薬を飲んでいる。
だからこれまで痛かった背中(背骨の一部が陥没している)や、股関節(人工股関節で3回手術している)も、もう痛く感じないでしょうと聞いた。母は「全然痛くない」といった。母はまた「(弟が)何もいわんもん」と、繰り返した。
ぼくは躊躇しながら、「そうして苦しまないように、お迎えがくるのを待っているんだよ」といった。ぼくは「でも、まだまだ生きられるからね」と、付け加えるのを忘れなかった。
自宅に帰りたいかと聞くと、母は「帰ってもいい」という。でも今、毎日リハビリをしてもらって、自宅において自分でトイレにいけるように訓練してもらっているから、もう少し待ってといった。ぼくは「先生にそうお願いしたからね」と、付け加えた。
母は少し経ってから、「わかった」といった。しかし母が実際に、どの程度理解したのかはわからない。
ぼくは「それから。。。」といった。「ぼくがこどもの時両親と一緒に暮らせなかったけど、それで不憫に思わなくてもいいからね。親として十分なことをしてもらったよ。わかる?」と聞いた。
母が唾を飲み込んだように感じる。少し経つとまた、母は「わかった」といった。今度は、とてもはっきりした口調だった。
でも母がどの程度理解したかは、想像できない。ぼくは、肩の荷が一つ降りたようにも感じた。でもこういったのが母のためによかったのかどうか、ぼくは不安だった。むしろぼく自身のために、そうしたように思えてならなかった。
話題を変えたい。
ぼくは、今日は病院まで歩いてきたのだといった。母は「遠かったろがいね(富山弁:遠かったでしょうの意)」といった。高岡駅から末広町、御旅屋通りと歩いてきて、高岡の大仏を見た。そこからさらに、古城公園を抜けて歩いてきたのだと説明した。ぼくは「そんなに遠くないよ」といった。
こうして市内を歩くのは、ぼくにとってふるさとを再発見することでもあった。ぼくは長い間、ふるさとを憎んできた。特に物心がついてから育ち、いやな思いをしてきた高岡だ。憎しみからしか、ふるさとを見てこなった。
そんな憎しみは歳とともに、もう感じなくなっている。でもぼくには、憎しみから見たふるさとしか残っていない。そのふるさと像を、憎しみから解放する必要があるのではないか。
それは、近づいてきたぼく自身のエンディングのためでもある。ぼくは母に対して、ぼくの過去を親として不憫に思わないでくれといった。それと同時に、ぼくは過去から離れて、ふるさとを新たに見つめ直さなければならない。
そう思うようになった。
2022年10月29日、まさお
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関連サイト:
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