ぼくの育った町はもう存在しない

 ぼくが小さい時育ったのは、富山県射水郡大門町。現在は、射水市大門となっている。2005年に周辺市町村と統合されたからだ。

 ぼくの育った土蔵造りの家は、大門町の柳町(やなぎまち)という地区にあった。柳町は、一級河川「庄川」の堤防に立地する区域だった。中洲といったほうがいいのかもしれない。

 というのは柳町が、庄川の支流和田川と庄川の間に位置していたからだ。和田川は柳町の南端で、庄川に合流する。

 ぼくは、その庄川の辺りで育った。家のすぐ裏に庄川があった。だから小さい時はよく、庄川の河原で遊んだ。

柳町跡地の資料館にあった古い地図。真ん中に縦に延びているのが庄川支流の和田川。左端が庄川で、その間が柳町だった

 庄川は、岐阜県高山市南西部に広がる飛騨高地を水源とする。流域には、合掌造りで有名な白川郷や五箇山がある。ぼくは先日、高山線で飛騨にいった(「高山線でカタンコトンとのどかに飛騨へ」)。その時見た川は、下流では富山市を流れる神通川となる。庄川は神通川の西に位置する。

 当時は、堤防など河川のインフラが整備されていなかった。そのため、ぼくの小さい時には、何回が洪水があった。でも、庄川の辺りの柳町が水に浸かることはなかった。庄川より、支流の和田川のほうが氾濫し、水田などが被害を受けた。

 ぼくはそこで、祖父母と一緒に暮らしていた。祖父が肥料屋をやっていたので、祖父は洪水になると、水田の被害を見に出かた。その時はぼくも、一緒にいったことがあった。

 洪水になると、肥料屋はてんてこまいになる。それは、水が引いた後に疫病が広がらないように、石灰をまくからだ。祖父のところには、石灰がほしいという問い合わせがひっきりなしに続いた。

 ぼくは11歳の時まで、祖父母の元で育てられた。両親は父の仕事の関係で、弟と3人で父の転勤先で暮らし、あちこち転々としていた。

 祖父がなくなったのは、ぼくが祖父母のところから離れて両親の元にいって、15年くらいしてからだった。その後は、祖母が一人で柳町の土蔵造りの家に暮らしていた。ただ祖母はパーキンソン病を患い、一人では暮らせなくなる。施設に入ることになった。

 それから、数年してからだったろうか。国の庄川堤防整備計画として、柳町からすべての住民が強制撤去しなければならなくなった。柳町が洪水で被害を受けたことはない。それにも関わらず、なぜ堤防を整備して、強制撤去させられるのか。ぼくにはよくわからなかった。

 幸い、祖母の入居している施設の前の区画に、新しい柳町が移転してくることになった。昔の隣人が祖母を訪ねやすくなった。

 強制撤去に当たり、大門町は柳町の記録を残す資料館のようなものを設置することを検討していた。そのために、わが家の土蔵造りの家を残し、資料館にリフォームできないかの話が持ち上がった。資料館では、わが家に残る古い物も展示することを考えるという。土蔵のほかに、家の前面に張られていた千本格子の木製の仕切り壁も残したいという意向があったようだ。

 わが家には母家に土蔵があるばかりでなく、肥料屋だったので、土蔵造りの倉庫もあった。ただ倉庫のほうは、状態がよくなかったと思う。倉庫のほうには関心はなく、母家のほうだけに関心があったようだ。

 結局、わが家の土蔵を残すという話はすべてご破産になる。理由は聞いていない。

 現在それに代わり、コンセプトもなく、何のためにあるのかよくわからない簡易資料館のようなものが建てられている。

右手前が庄川支流の和田川。その左が柳町跡地で、そこに立っている建物が資料館

 柳町のあった跡地は盛り土され、頑丈な堤防のようになっている。しかし柳町のあった区域だけをなぜこうするのか。何のための堤防整備なのかもよくわからない。

 土木工事を立案して、地元の建設業に仕事を与えるためだけの目的だったのではないかと思えてならない。地方における典型的な地方経済振興策だ。日本の地方における問題をそのまま反映させている。

 こうしてぼくの育った区域と土蔵造りの家はもう、姿形もない。跡地には、「旧柳町跡地」と刻まれた石碑があるだけだ。

2022年11月29日、まさお

関連記事:
ぼくの育った家は土蔵造りだった
ふるさとを再発見する
高山線でカタンコトンとのどかに飛騨へ

関連サイト:
富山県射水郡大門町|歴史的行政区域データセットβ版

この記事をシェア、ブックマークする

 Leave a Comment

All input areas are required. Your e-mail address will not be made public.

Please check the contents before sending.