ぼくの育った家は土蔵造りだった
実家のある富山県高岡市では、あちこちに土蔵造りの家が見られる。それは、知っていた。ただある地区に、土蔵造りの家が集中して並んでいるのは、今回はじめて知った。
むしろ、そう再開発して町おこしをしているといってもいい。
ぼくは、土蔵造りの地区にとても関心を持った。ぼくが小さい時に育った家も、古い土蔵造りの家だったからだ。
高岡市の土蔵造りの町並みは、「山町筋」といわれる。高岡の御車山(曳山)の中心地区だからだ。「山町(やまちょう)」と呼ばれるのは、御車山の町ということ。
山町筋にいって、驚いた。土蔵造りの家々が見事に、修復されて並んでいる。それぞれ家の間口も大きい。家と家の間に、レンガ積みされた幅広の仕切り壁もある。こんな壁は知らなかった。
土蔵造りの家は、商家だった。土蔵造りの家の趣から、豊かな地区だったのがわかる。
山町筋の土蔵造りの家々
高岡は元々、江戸初期に城下町として発足した。しかし高岡を城下町にしようとした加賀藩藩主前田利長が築城5年後にして亡くなる。その結果、城下町としての存在価値を失う。
高岡が貧窮していくことから、利長の後継藩主となった利常が、高岡を商工業の町に転換させることになる。こうして高岡は、越中の米と綿などの集散地として繁栄する。
だから、土蔵が必要だったのである。その中心が山町だった。
ぼくが育った土蔵造りの家は、肥料家だった。今から思うと、商家だったのだ。ぼくは当時、それにまったく気づいていなかった。ぼくの育った家には、古いものがたくさんあった。でも山町筋に並ぶ家々ほど豪華で、立派なものではなかった。
ぼくは、土蔵造りの家の中を見たくなった。ちょうど高岡市土蔵造りのまち資料館というのを見つける。そこは旧室崎家の住宅。土蔵造り家の中を見せてくれる。入口を入って入場料を払うと、すぐに受付の女性が中を案内してくれる。
入口の土間は、ぼくの育った家とは感じが違う。ただ道路側正面が、木製の千本格子造り(越中では、さまのこという)になっているのは同じだった。
靴を脱いで上がる。すぐに座敷と仏間に案内された。
土蔵造りの家の座敷と仏間
ぼくはハッとした。座敷も仏間もかなり広い。中庭と座敷が当時、障子扉だけで仕切られていたのがわかる。今は外側に、アルミサッシの仕切りドアが入っている。
ぼくが小さい時に育った家の造りと、とてもよく似ている。大きな仏壇があるのもまったく同じだった。
ぼくの育った家は、こんなに大きくない。欄間もこれほど立派なものではなかった。でも座敷と仏間が並んでいるなど、間取りがよく似ている。ぼくは、こういう雰囲気の家で育った。
そう思うと、小さい頃のことがとても懐かしくなる。すぐに、当時育った大門町の家のことが思い出された。
いってみたい。ぼくはそう思った。
2022年11月24日、まさお
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関連サイト:
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