51年前の9月05日
今から51年前の今日9月05日に、ドイツで起こった悲劇のことを覚えているか、知っている人はいるだろうか。
今から51年前の1972年の夏、旧西ドイツの南部バイエルン州の州都ミュンヒェンでは、ミュンヒェンオリンピックが開催されていた。

オリンピック開催中の9月05日、選手村のイスラエル選手団宿舎にパレスチナ武装組織「黒い九月」が侵入する。まず、イスラエルの選手2人が殺害される。その後イスラエル選手9人が人質に取られ、テロリストたちは地元の警察当局と人質の解放と自分たちの逃亡について交渉する。
人質解放の条件として、日本赤軍の岡本公三などの解放が求められた。
しかし、逃亡のために用意されたヘリコプターの待つフュルステンフェルトブルック空軍基地において、交渉が騙しであったことが発覚する。テロリスト1人が手榴弾で自爆。ヘリコプターに乗っていた人質9人も死亡した。テロリスト側は8人で、5人が死亡、3人が逮捕された。逮捕された3人は、後で起こった独ルフトハンザ航空機のハイジャック事件で解放されることになる。
その他にも、地元の警官1人が死亡した。
オリンピック競技自体は事件中中断されたが、犠牲者の追悼式典を開催した後、IOCの強い要請があったことから再開された。
ミュンヒェンオリンピックのテロ事件は、西ドイツばかりでなく西側諸国において、厳重なテロ対策を講じるため、テロのための特別部隊や装備などを用意、開発するきっかけになっている。それが、現在の各国のテロ対策の基盤になっているといってもいい。
なお事件の真相が一部明らかになるまでには、40年以上もかかっている。西ドイツ政府の関連書類を閲覧できるようになったのは、40年後の2012年。しかし実際にテロ事件に対応したバイエルン州治安当局の関連書類は、まだ閲覧できなかった。
旧西ドイツ政府との間では長い間、遺族との間で損害賠償について合意できない状態が続いた。事件のあった1972年から30年間は、わずかの見舞金が支払われたにすぎなかった。

ドイツ側が事件におけるオリンピック開催中の警備の不備と事件の対応の不手際を認め、遺族との間で損害賠償について合意できたのは、現在の中道左派政権が誕生してからだ。事件から50年後の2022年夏のことだった。
その直後になってようやく、遺族とイスラエルとドイツの両国大統領が国家儀式として、2017年にオリンピック公園に設置された事件のマルチメディア追悼記念施設と、人質が殺害されたフュルステンフェルトブルック空軍基地を訪ねている。


ミュンヒェンオリンピックに利用されたスタジアムなどの施設は今も、とてもモダンに見える
このテロ事件とドイツ側の対応は、ドイツの歴史の一つの汚点だといっていい。
2023年9月05日、まさお
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関連サイト:
悲劇に終わったフュルステンフェルトブルック空軍基地での出来事を記録するメディアサイト(フュルステンフェルトブルック郡公式サイト、ドイツ語)