コロナ禍で揺らぐ同権と平等
コロナ禍でロックダウン(封鎖)になると、幼稚園や学校が休校になりました。同時に、こどもの両親は在宅勤務などを要請されました。
そこで問題になったのは、親が共稼ぎの場合や、片親の家庭でした。小さなこどもが自宅にいては、その世話などで仕事ができません。共稼ぎの家庭では、両親が共に自宅にいても、母親のほうがこどもの世話をすることになります。
この時、男女同権はどうなったのかという疑問が生まれます。男性は働き、女性は家庭を守るものという古い伝統的な慣習が戻ってしまったのかようでした。
コロナ禍では、こうして男女同権が揺らぎます。
親が働くために、ベビーシッターをお願いしたり、こどもを幼稚園や学校に預けるのは、親がともに働けるように、その時間を買っていたのかとの疑問が生まれます。
本来だといかなる条件においても、親が同じように働き、こどもの世話も共同でできる条件が整っていなければならないはずです。
こどもが休校しても学習できるかできないかは、親の社会的な地位や資金力に大きく左右されることも明らかになりました。自宅でオンライン学習するには、最低限こどもがそれを可能とする装置を持っていなければなりません。また親にも、それをサポートできる能力と時間的な余裕もなければなりません。
でも親にそれだけの余裕のない家庭では、こどもはオンラン学習ができません。
それでは、教育を受けるこどもにより大きな格差が生じます。これは、社会問題だともいわれました。それが、コロナ禍でできるだけ休校しない背景にもなっています。
ぼくがここで疑問に思ったのは、幼児教育も含めて教育がこうして経済と関連させて見られたことです。男女同権やこどもの教育までもが、お金で買われているように見えてしようがありません。資本主義においては、教育がしっかりと商業化されているということなのだと思います。
まず、こどもの教育から。
ここには、こどもの教育が社会の共同の責任だという見方がありません。こどもには誰にも、平等に同じ教育を受ける権利があります。またそうしなければなりません。そうして、社会全体がこどもの教育に対して共同で責任を負わなければならないはずです。これは同時に、政治の問題でもあります。
オンライン学習するだけの装置を持っておらず、親のサポートの受けることのできないこどものために、すぐに適切なサポートのできるような制度づくりが必要です。
でもそれが、これまでそうなっていませんでした。教育が商業化され、裕福な家庭に育つこどもが優遇されていたことになります。コロナ禍で、その問題がより明らかになりました。
男女同権についても、同じことがいえます。
男女同権は、各家庭の問題ではなく、社会全体の問題です。社会制度として、どうして男女同権を実現するのか。たとえば育児において、男女が一緒に共同で育児しながら働いていくには、どうすればいいのか。それが制度化されていないから、商業化によって男女同権が実現されたかのように錯覚していたことがわかります。
同権であることも、平等であることも、お金によって買われていたのだと感じます。すべてとはいいませんが、その一部がお金によって肩代わりされていたのだと思います。
これは、資本主義社会において、ぼくたちが何でもかんでも成長を目的に走らされてきたことと無関係ではありません。成長は、前年よりもより成長することを意味します。そのためには、みんなが前年よりより効率よく、より多く働かないと成長しません。ぼくたちは資本主義の下で、目先のことだけを見て走るしかありません。
その結果、親はこどもの教育や男女同権を実現するための時間的な余裕を失います。それを補うため、同権と平等が商業化される羽目になったのだと思います。
こどもの将来についても、男女関係の将来についても、どうしていいかを考えず、行き先を見失っていたのではないでしょうか。
前回、ぼくたちはコロナ禍で時間の自由を得たことについて書きました。この時間は、ぼくたちが資本主義化において目先の成長だけを追い続けていていいのかどうか、考える時間を与えてくれます。
その時間を利用して少し立ち止まり、同権や平等の問題についても考えてみたいと思います。
(2020年12月18日、まさお)
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