終戦直前日本に向かったドイツの潜水艦

終戦を巡る原爆の謎

 1945年3月24日、ドイツの潜水艦がドイツ北部のキール港を出港しました。潜水艦はU234号。目的地は日本です。

 潜水艦はその直前まで、半年以上かけて輸送用に改造されていました。日本に軍事用物資を輸送するためでした。その時、新しいシュノーケル(潜水艦の排気管)が取り付けられ、潜水艦は新しいシュノーケルの取り扱いを訓練するため、ノルウェーのオスロフィヨルドに向かいます。敵の攻撃を回避して、安全に訓練するためでした。

 しかし訓練中、護衛のドイツの他の潜水艦と接触。潜水艦を修理しなければならなくなりました。潜水艦U234が修理を終え、ノルウェーのクリスチャンサンから出航したのは4月16日でした。予定より、約2週間も遅れました。

 同じ日の4月16日、ドイツ東部のゼーロウ高地では、独ソ最後の激戦がはじまりました。それについては、前回書いています(「ナチスドイツはなぜ原爆を使用しなかったのか」https://taiwakobo.de/sayo/2021/06/11/175/)。

 潜水艦には、ベルリンの日本大使館にいた日本海軍の友永英夫海軍技術中佐と庄司元三技術中佐が乗船していました。友永は潜水艦設計の、庄司は航空機エンジンの専門家でした。

 潜水艦U234が日本にむけて航海している途中、ナチス・ドイツは1945年5月8日に降伏します。ヒトラー自殺後に大統領に就任したドイツ海軍総司令官のカール・ドェーニッツ元帥から、潜水艦にすぐに降伏命令が届きました。

 友永と庄司は潜水艦艦長ヨハンハインリヒ・フェーラーに対して、降伏せずにそのまま日本まで航海を続けるよう強く迫ります。しかし艦長は、米国に上陸して降伏することを決定しました。それが、乗員の身の安全を守る上で最善だと判断したからでした。

 日独の間には、もう同盟関係は存在しません。友永と庄司は、艦内の自室に閉じこもります。U234の艦長は、二人が自殺するのではないかと考え、監視を付けていました。しかし潜水艦では、捕獲しようとする英国軍から激しい攻撃を受け、騒然としていました。二人を監視するどころではありませんでした。

 友永と庄司はその間に、ルミナールを飲みます。ルミナールは、てんかんを抑えるためにドイツで開発された薬。睡眠薬としても使われ、致死量を飲めば死ぬこともできます。二人がベルリンを離れる時、日本海軍軍医から万一に備え、手渡されていたのでした。

 二人の部屋には、遺書が残されていました。海葬してほしいと書いてあります。フェーラー艦長は投降する直前、二人の遺志を尊重して遺体を海に葬りました。

 潜水艦は5月14日、海上で米海軍護衛駆逐艦サットンに投降しました。5月17日、米国旗を掲げて米国ポーツマスに上陸します。

ドイツの潜水艦U234は投降後、米国旗を掲げていた。米海軍護衛駆逐艦サットンから撮影。ドイツ潜水艦博物館(Deutsches U-Boot-Museum, Cuxhaven-Altenbruch)提供

 U234号には、何が搭載されていたのか。それについては、次回お話しします。

 この辺のことは、ぼくの電子書籍『きみたちには、起こってしまったことに責任はない でもそれが、もう繰り返されないことには責任があるからね』に、もっと詳しく書いています。関心のある方は、のぞいてみてください(以下に、リンクあり)。

 友永英夫海軍技術中佐のことについては、富永孝子さんが『深海からの声、Uボート234号と友永英夫海軍技術中佐』(新評論刊)という本を書かれています。(つづく)
 
(2021年6月27日、まさお)

関連記事:
ナチスドイツはなぜ原爆を使用しなかったのか
スターリンの原爆実験ビデオ
ナチスドイツは原爆を開発していなかったのか
きみたちには、起こってしまったことに責任はない でもそれが、もう繰り返されないことには責任があるからね(書籍案内)

関連サイト:
ドイツ潜水艦博物館(Deutsches U-Boot-Museum, Cuxhaven-Altenbruch、ドイツ語)
きみたちには、起こってしまったことに責任はない でもそれが、もう繰り返されないことには責任があるからね(電子書籍、立ち読みできます)

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