日本がイエローケーキを入手しようとした目的は?

終戦を巡る原爆の謎

 ここまで、日本軍がベルリンの昭和通商会社を通じて、1944年にドイツで原爆の原料となるイエローケーキを購入していたことがわかりました。そのイエローケーキはまず、日本の潜水艦で日本に輸送されようとしました。しかしその潜水艦は、イエローケーキを搭載することなく撃破されてしまいます。

 その後、ドイツの潜水艦を輸送船に改造して、翌1945年春にイエローケーキを日本に運ぼうとしました。それが、ドイツの潜水艦U234号でした。それも、ドイツが降伏したことから、航海途中に頓挫します。

 日本はなぜここまで執拗に、イエローケーキを日本に運ぼうとしたのでしょうか。

 米軍は終戦後、ナチス・ドイツが日本にどの程度軍事技術を供与したのか調査しました。その調書に、ナチス・ドイツが日本に提供した軍事技術の一覧があります。それによると、ナチス・ドイツから日本に供与された技術は、レーダー、大砲やその他の武器、ミサイル、水中弾、ロケット、戦闘機、潜水艦、毒ガスなど。調書の「その他の項」ページ177に、原爆開発に関して2つの記述がありました。米国海軍の情報機関が、米軍によって拘束された日本人捕虜を聴取して得た情報でした。

原爆の問題について記載された米軍調書抜粋

 いずれも、米軍の捕虜となった日本軍技官の証言です。技官はそこで、以下のように述べています。

 1944年11月、陸軍士官学校卒第1軍曹の小隊長から、日本が1944年に何回か、97式中戦車ハケ(註:原文の「ハケ」は間違い。正確には「チハ」のはずだ)に利用される戦車用V型12気筒ディーゼルエンジンの青焼き図面と交換に、ドイツ式原爆の構造図を手に入れたと聞いた。小隊長によると、爆弾はマッチ箱1つ程度の大きさで、半径1000メートル程度の破壊力がある。

 技官はさらに、日本がこの種の爆弾を製造したのかどうかも、どういう目的で使用したいのかも知らないと証言しました。爆弾は、フィリピンでは使われなかったとも語っています。技官が「フィリピン」といっているのは、九七式中戦車が1942年にフィリピンで最初に実戦に投入されたからではないかと見られます。

 この2つの証言からすると、日本陸軍はドイツ式の原爆を戦車で使おうとしたのではないかとも推測できます。

 調書はさらに、日本軍技官の証言の下にこうコメントしています。

 ドイツの潜水艦U234号が降伏した時、酸化ウラン(イエローケーキ)が搭載されていた。この荷が原爆開発のためだったのどうかわからない。しかしその量からすると、重要だ。

 米軍の調書に、「(爆弾が)マッチ箱1つ」という証言があります。「マッチ箱爆弾」というのは、日本本国でも話題になっていた記録がありました。それについては、次回述べることにします。

 この辺のことは、ぼくの電子書籍『きみたちには、起こってしまったことに責任はない でもそれが、もう繰り返されないことには責任があるからね』に、もっと詳しく書いています。関心のある方は、のぞいてみてください(以下に、リンクあり)。(つづく) 
 
(2021年9月03日、まさお)

関連記事:
ドイツの潜水艦は代役だった
日本行きの酸化ウランは高純度のイエローケーキだった
日本行きのドイツ潜水艦には酸化ウランがあった
きみたちには、起こってしまったことに責任はない でもそれが、もう繰り返されないことには責任があるからね(書籍案内)

関連サイト:
きみたちには、起こってしまったことに責任はない でもそれが、もう繰り返されないことには責任があるからね(電子書籍、立ち読みできます)

この記事をシェア、ブックマークする

 Leave a Comment

All input areas are required. Your e-mail address will not be made public.

Please check the contents before sending.