古い国家意識が崩壊する

 ぼくは、これまで何回かに渡って国家の役割が替わってきたことについて書いた。それは今、国家そのもの、あるいは国家に対する意識が替わってきていると思うからだ。

 たとえばトランプ米国大統領のスローガン「アメリカ・ファースト」をみれば、よくわかると思う。

 それは、国家がもう戦後の成長期の1970年代の国家ではないことを意味している。1970年代の石油危機、リーマンショックに伴う金融危機、グローバル化、デジタル化と社会が変遷し、国家も替わってきた。経済成長期に拡大した中流層は社会の変遷とともに萎み、格差が拡大する。

 国家は成長期に中流層を支援したようには、もう市民を社会的に支えることはできない。

 グローバル化とデジタル化は、国家ばかりでなく、国境さえも見えないもの、ないに等しいものにしようとしている。こうした変化に対し、その変化から取り残された市民に成長期の国家に対するノスタルジーがある。

 でも国家は、もう当時の国家ではない。労働者を、市民を中流層に引き上げることはできない。でも何とか、それを回復させたい。過去の夢を追いたい。「アメリカ・ファースト」は、その気持ちを代弁している。

 戦後の成長期、その後の石油危機、金融危機、さらにグローバル化とデジタル化と変化した社会は、資本主義経済の申し子だといってもいい。その変化は、資本主義経済の変遷とともにあった。

 国家はその変化とともに、資本主義を支えるだけの補佐役に化していったといってもいい。むしろ、資本主義経済のいいなりになるだけの国家といったほうがいいかのもしれない。

 国家の政治的権力は、小さくなるばかりだ。失いつつあるといってもいい。法律の立案でも、経済界がドラフト案をつくり、政府はそれを清書するだけとなる。そこに、市民に対する視点はない。経済の景気がよければ、社会も市民も潤う。そうした論理でしか政策は講じられない。

 市民は、国家から見捨てられたと感じる。それが、成長期の国家に復帰してほしいというノスタルジーを生む。当時、中流層は経済成長とともに拡大し、市民は国家に支えられていると感じていた。

 でも、そうした時代は終わった。国家は、当時のような国家ではない。中流層が拡大するどころか、中流層は崩壊して、格差が拡大するだけだ。国家は、それをただ見ているしかない。

 それと並行して社会では、国家そのものに対する意識も薄くなってきている。グローバル化とデジタル化の波に乗って勝ち抜いてきた勝ち組や、それによってより大きな自由を満喫している若い世代にとり、過去の保守的な国家はもう必要ない。

 グローバル化したデジタル化社会に国家という形はあっても、実際の活動に国境はない。でも取り残された人たちには、それが理解できない。

 こうして、経済的な格差ばかりでなく、国家意識に対しても格差が生まれている。その状況が、英国のEU離脱にも反映していると思う。

 現在取り残された市民に、社会と国家に対する不満と怒りが生まれている。不満と怒りは、既存社会を支えてきたエリート層やメディアにも向けられる。社会は分断され、不安になるばかりだ。

 その矛先は、どこにいくのか。

(2020年8月27日、まさお)

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