危機に弱い国家

 前回、国家が危機管理役に変わってしまった現実について書いた。でもそれは、政策的には後手に回ることを意味する。危機管理とは、起こったことによる影響や被害をできるだけ抑えることでしかないからだ。

 危機管理に追われるだけでは、国家は社会政策や教育政策、技術革新、環境政策など実際に国が必要とする政策は後回しとなる。さらに国家が危機管理に失敗すると、社会はより混乱し、暴動化する危険さえも伴う(米国の現状を参照)。国家はその結果、より後手に回る。

 それは危機管理において、国家が本来導くべきこととは違う結果を招きかねないということでもある。国家が講じるべき政策は、そうではないはずだ。危機的な状態になっても、社会が混乱状態に陥らないように、事前に準備、予防しておくことが必要だ。そうした政策が現在、十分には行われていない。十分に機能もしていない。

 それが、今の国家の問題ではないだろうか。それが、社会の混乱を招いている。

 では、国家による予防とはどういうことなのだろうか。あるいは、何が予防の範疇に入るのだろうか。

 実は国家は、現在もすでに予防措置を講じていなければならない。たとえば、健康や教育の分野がそうだ。でもコロナ禍を見ればわかるように、国家はパンエデミックに対して無防備だった。国家はそれに対して、十分な予防対策と準備体制を講じていなかった。

 教育もそうだ。教育は本来、すべてのこどもたちを平等の条件で教育するものでなければならない。ただ実際には、そうでないから教育に格差が生まれる。それが、こどもたちの将来の格差を決定する。将来の社会問題が、こどもの時にプログラミングされているといってもいい。

 住宅の問題もそうだと思う。国家は本来、誰もが平等に生活できるだけの住宅を提供し、それを管理するべきであるはずだ。でも現在、住宅市場では経済論理が優先され、住宅でいかに営利を追求するかが最も重要になっている。その結果、働いて得た給与だけでは家賃を支払って生活することのできない人たちが増えている。

 こうして見ると、国家の政策は社会のインフラを整備して、そのインフラが公正、平等に利用されることに重点を置かなければならないことがわかる。それが同時に、社会政策ともなる。

 インフラ整備と社会政策がもっとも密接に関係するのは、ライフラインだ。ライフラインにおいては、経済性が追求されてはならない。ライフラインでは、市民が平等、公正に生活できる枠組みを整備する。それが、国家によるインフラ整備ということでもある。

 それが同時に、国家による予防措置となる。予防措置がしっかりと講じてあれば、危機的な状態になっても、社会にはそれに対して強い抵抗力がある。

 たとえばコロナ禍において、社会に抵抗力があるかどうかがとても重要であることがわかった。

 それは、ウイルスに対して抵抗力があるかどうかということではない。ロックダウンになった時に、社会が大きな混乱を引き起こさずに感染防止に協力できる。あるいはロックダウンで経済が止まって市民に収入がなくなっても、市民が路頭に迷わずに、セーフティネットのおかげで社会が混乱せずに機能するということだ。

 国家の政策は本来、事前の予防措置によって何が起こっても社会がそれに抵抗できるような社会造りを目的とするべきだ。

 ただ現実は、そうではない。だから、社会が混乱する。危機に弱い社会となる。

(2020年7月30日、まさお)

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