こどもの時に遊んだパチンコ台

 ぼくは2022年秋、実家のある富山県高岡市に2カ月間滞在した。それは、ぼくのこどもの時のルーツをたどる旅のようなものでもあった。

 ぼくがこどもの時に育ったのは、今の実家ではない。今の実家に暮らしはじめたのは、小学校6年生になってから。高校卒業後、上京した。今の実家には、7年間暮らしていたことになる。

 ぼくは小学校5年生の秋まで、富山県射水郡大門町柳町の祖父母のところで育った。その後になってようやく、両親のところで暮らしはじめた。

 祖父母の家が土蔵造りだったのは、すでに述べた。今から思うと、祖父母の家では骨董品と一緒に暮らしていたといってもいい。

 たとえばテレビ。日本ではテレビ放送が、1950年代に開始されている。祖母のところにあったテレビは、その直後に買った白黒のテレビだった。その頃はまだ、町内には祖父母のところにしかテレビがなかった。そのため、よく隣人がたくさん見にきていたという。

 ぼくもまだ小さい頃、そのテレビを見て育った。カラーテレビも比較的早く入ったと記憶している。しかしぼくはよく、その白黒テレビのほうを見ていた。

 白黒の古いテレビは、貴重品だ。いつまでも持っていたかった。しかし今、もうどこにいってしまったのかわからない。祖父母が処分してしまったのか、誰かにほしいといわれてあげてしまったのか。もう誰にもわからない。

 ぼくがこどもの時を共にした貴重な思い出だけでに、とても残念だ。

 今回実家にいた時、大きな物置に入ってみた。大門町の祖父母の家を堤防工事のために強制的に撤去させられた時、土蔵にあったものをできるだけ残しておこうと思った。今ある実家の物置は、土蔵にあったものを保管しておくために、実家を改築する時に特別につくったのだった。

 ぼくは今回、物置に入ってまだ何が保管されているのか、見たいと思った。そう思ったのは、今回がはじめてだったのではないかと思う。それまでは一時帰国しても、実家に滞在したのは2、3日程度。それでは、物置に入っている時間はない。

 物置に入って、あああれがある、これもあると思いながら、奥のほうに入っていった。すると、とても懐かしいものがあった。

 ぼくは、ええこんなものがまだ残っていたのかと思った。懐かしいなあ。

ぼくが小さい時に遊んでいたパチンコ台

 それは、古いパチンコ台だった。ぼくはこどもの時、退屈した時に、このパチンコ台を出して遊んでいたことがある。ただパチンコ台で遊び出しても、長続きしなかった。すぐに飽きてしまった。パチンコの球を打っても、玉は自分の思う通りに動いてくれない。そのため、すぐに放り出してしまったのだった。

 パチンコ台は最初、寝室にある電話ボックスの中にしまってあったのではないかと思う。そのうちに偶然、ぼくが見つけた。いつでも遊べるように、ぼくが寝室に出しておいたように記憶する。ぼくがそれほど気に入っていたわけではないし、こどもがパチンコ台で遊ぶのはよくないと、祖父がいつの間にか、土蔵に入れてしまったと記憶している。

 それでもぼくは反抗せず、何ともいわなかったはずだ。ぼくには、どうでもよかった。

 触っていたようなものだが、ぼくはこどもの時にパチンコ台で遊んでいた。しかし大人になってこれまで、パチンコ屋にいきたいと思ったことはない。

 不思議なものだなあと思う。こどもの時にパチンコ台で暇つぶしをしていたが、ぼくにはつまらないと、こどもながらに感じてしまっていたのかもしれない。

2023年5月15日、まさお

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関連サイト:
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