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ドイツが脱原発を決めた政治的なプロセスとドイツの反原発運動について述べた。だが、それだけで脱原発が実現できると思ったら、大間違いだと思う。実際ドイツでは、それだけでは脱原発は達成できなかったはずだ。
たとえばスウェーデンでは、1990年代はじめに国民投票が行われた。国民は脱原発を支持。しかしそのスウェーデンにおいてさえ、脱原発に進む気配はまったくない。
ドイツの反原発活動家の中には、犯罪者のように扱われながらも戦ってきた人たちも多い。ドイツで脱原発を達成できたのは、これら活動家たちの弛まない運動があったからだ。ただ反原発運動が一般市民に浸透せず、活動家と一般市民の間にかなりのギャップがあったのは否定できない。
確かにチェルノブイリ原発事故後、ドイツでは小さな子どもを持つ親のグループがたくさんできた。しかしそれは反原発というよりは、子どもを原発事故の影響から守るための活動だった。反原発運動は、一般市民にまでは浸透していなかった。
それが、原発はもういらないと脱原発が一般市民にも定着するようになるのは、再生可能エネルギーが代替エネルギーとして目に見えるようになったからだ。
それによって一般市民の間に、原発がなくてもエネルギーが供給されると確信できるようになる。それも、脱原発に向けたプロセスの一つとして、とても重要な要因だった。
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フクシマ原発事故後の2011年3月26日に行われた反原発デモには、子どもと一緒の家族連れがかなり見られた。写真は、ベルリンでのデモから |
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それとともに再エネで活動する市民団体などが、反原発デモにスタンドを出すようになる。ぼくははじめ、その意義についてよくわからなかった。
再エネの団体が反原発運動に出てきて、何になるのかと思っていた。しかしそれが当たり前になってはじめて、反原発運動における再エネの重要性が認識できるようになる。
ドイツの反原発デモにおいて目立つようになるのは、小さな子ども連れの家族や学校の生徒たちの姿だった。「原発はもういらない(Atomkraft? Nein Danke!)」と書かれた旗をつけた乳母車に、小さな子どもを乗せてデモをする若い母親をよく見かけた。犬も一緒に、反原発デモに参加する。
学校では、生徒有志が反原発デモに参加しようと提議すると、教室においてクラス全体で討議する。先生は中立的な立場で、それを聞いている。生徒たちが反原発デモに参加する決議をすると、先生は責任教師として、生徒たちをデモに引率する。
こうした現象は、2000年代に入って顕著になる。反原発デモに参加する層が多様化していくのだった。脱原発したほうがいいという気持ちが市民の生活に浸透していき、脱原発の機運が底辺にも広がっていく。
一般市民の目に見えるように再エネが拡大するのは、2000年に施行する再生可能エネルギー法のおかげだった。
これは、当時の与党社民党のヘルマン・シェーアさんや緑の党のハンスヨーゼフ・フェルさんなど連邦議会議員を中心に立案された議員立法だった。それによって、アーヘンモデルを原型とする再エネで発電された電力の買取を義務付ける固定価格買取制度(FIT)が本格的に始動する。
FIT制度によるこの効果は多分、法案を立案した議員たちも予測していなかったのではないかと思うが、どうだろうか。
(2023年7月25日) |