カレンダーに予定がなくなるのはなぜ

 コロナ禍で自宅にいる時間が長くなっています。カレンダーにも、アポイントやその他の予定も少なくなっています。カレンダーには余白が多くなり、白くなりばかりです。

まだ真っ白なカレンダーだか。。。

 それが、時間が仕事や買い物などの消費生活にいかに左右されていたかを示すものであることはすでに書きました(「コロナ禍で得た自由」)。

 同時に、自分で使える自由な時間が増えました。でもそれによって、逆にその時間をどう使えばいいのか不安になる人も多いと思います。

 その結果、自宅でパソコンの前に座っている時間が長くなっているのではないかとも思います。何かおもしろい動画がないだろうか。1日の検索回数もかなり増えていませんか。時間を持て余す退屈さを解消しければなりません。

 コロナ禍ではロックダウンによって、経済活動が制限されます。その結果、倒産する企業や店じまいするお店が増えることが心配されます。となると今後、失業者や生活保護者が増えます。

 ぼくたちはこれまで、何事もなく仕事をし、それによって得た収入で消費して暮らしてきました。コロナ禍の経験から、それが当たり前のことではないことがわかりはじめます。

 資本主義さえ順調に機能すれば、経済活動が維持され、将来も安定することもわかりました。その安定をもたらしている一つが、投資であるともいえます。投資によって、将来の経済活動を確保し、経済を安定、持続させていたともいえます。

 保険もそうですね。保険によって、将来起こるかもしれない危険に備えます。カレンダーでは、将来の予定を書き込んでおいて、後で忘れないで実行するように予防します。

 問題は、その将来がいつかです。将来は抽象的で、時間のスパンがとても長いものです。でも保険は、せいぜいぼくが生きているだけのもの。カレンダーにいたっては、ほんの先の将来のことしか記入しません。

 ぼくはこれまでサイトの記事で、今の資本主義は目先のことしか考えていないとよくいってきました。

 投資するのは、取り入れた技術が古くなって消耗したり、新しい技術がないともう時代の流れに追いつけなくからです。でも今、技術革新の速度がとても早くなっています。その分、投資の間隔が短く、投資のテンポが早くなっています。個人の生活においても、パソコンを買っても早ければ5年後には買い換えなければなりません。

 ぼくたちは、そのテンポに合うように早るしかありません。それがまた、カレンダーにたくさんの予定を入れる要因にもなっています。

 資本主義はこう構造化され、安定をもたらしてきたのだと思います。

 でもコロナ禍で、これまでの資本主義の構造がいかにもろいものかがはっきりしました。これまでの経済構造では、パンデミックの下では経済が機能しません。経済予測も、コロナ禍の状況に左右され、その状況に応じて常に更新しなければなりません。それでは、予測の意味がありません。

 ぼくたちのカレンダーの予定も、コロナ禍の状況に左右され、カレンダーが埋まったり、余白ばかりになったりします。経済が動かないと、カレンダーは真っ白になるばかりです。

 ぼくは以前、社会と経済を持続可能にするためには、経済指標に持続可能な視点を取り入れるべきだと書きました(「新しい経済指標が必要/指数関数的社会への警告(5)」)。社会と経済に持続可能性を持たせれば、パンデミックのような短期間の影響を最小限に止めることができまるのではないかと思います。

 たとえば、パンデミックで企業活動が停止しても、社員を解雇せず、時短制度や休業制度によって雇用を維持します。その間の賃金も保証できるようにします。そうすれば、パンデミックが終わると経済は早く立ち直ります。

 長い目でみた経済。でもそういうと、経営者はコスト高だといいます。目先のコストしか考えていないから、そう思うにすぎません。先に何が起こっても対応できるように準備しておけば、長い目で見れば、全体ではコスト安になっているはずです。

 コロナ禍においても、経済活動を止めないように中途半端なコロナ対策をしているから、コロナ禍がだらだらと長く続くのです。厳しい対策でコロナを素早く退治すれば、その分経済活動の停止しても停止期間は短く、全体としてそのコストは低減されるはずです。

 そのようにできないのは、コロナ禍の影響を目先でしか見ないで、長い目で見ていないからです。

 パンデミックは、いつでもまた起こる可能性があります。新型コロナで終わりだとは思えません。これからは、パンデミックに強い社会造りが必要になります。

 その一つが、生活にどうしても必要なライフラインといわれるインフラ設備を市民の下に置いたり、その構造を市民中心に考えることだと思います。発電、水の供給、交通などのライフライン。ぼくはそこに、さらに住宅と農業も加えたいと思います。

 ライフラインにおいては、経済利益だけが優先されてはなりません。発電は市民が行います。水の供給を公営化します。交通では、車に依存しないように公共交通を整備するほか、自転車や歩行にやさしい町造りを行います。住宅は、住民自治を原則とします。農業においても、農民と市民が連帯して農業を行うことができるような枠組みをつくります。

 そうして、市民主導でライフラインを運用すれば、パンデミックのような危機的な状況に陥っても、市民には最低限生きていくことが保証されます。

 これは、社会が経済中心に動くのではなく、市民が社会を動かす歯車になるから可能になります。市民が主体として動く社会造り。それが、社会と市民生活の持続性をもたらします。これまでの資本主義による仕事と消費を主体とした生活から、持続可能な社会を目指して市民主体の生活に切り替えます。

 そうすれば、仕事と消費に関わる予定しか記入されていなかったカレンダーに、パンデミックになっても社会のために必要な予定が記入されていると思います。

 カレンダーは白くなりません。

(2021年1月29日、まさお)

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