公共教育の無償化

 現在先進国では、親の所得レベルがこどもの教育レベルを決めるようになっている。それとともに、親の所得の格差が、こどもの教育の格差をもたらしている。

 こどもがどの親の元に生まれてくるかは、こどもの責任ではない。すべてのこどもに平等で、公平な教育を施すのが社会の責任である。

 そのため、教育費による親の負担をできるだけ軽減するため、教育を国家の役割として無償化すべきだ。ぼくは、そう思っている。

 ただ、こどもを私学で学ばせたい親もいると思う。その自由を剥奪しないため、公共教育の無償化を実現するべきだ。「公共教育の無償化」としたのは、そのためだ。

 もう少し具体的にいうと、幼児教育・保育はすべて無償化し、小学校から大学までの教育においては、公共教育を無償化すべきだと思っている。

 こうして書くと、教育の無償化は単なる社会政策のように見えてしまうかもしれない。しかしぼくは、そうは思っていない。教育の無償化は、さらに2つの点でとても重要な政策となる。

 出生率が下がり、社会の高齢化に歯止めが効かない。一つは、それに対応する手段として、教育を無償化する。教育の無償化は、幼児教育と保育を無償化するだけでは育児支援にすぎない。それをさらに大学教育にまで拡大しないと、高齢化対策とはならない。

 それはなぜか。

 大学を卒業するまでの教育費の負担は、親にとってかなり大きいからだ。それが、こどもをつくる、つくらないで重要な判断基準になっている。その親の負担を軽減することで、出生率を上げる。その意味で教育の無償化は、高齢化社会対策だといえる。

ドイツ北西部オルデンブルクの公立ベルンバルト・ギムナジウムでの政経の授業から。ギムナジウムは大学進学を目的とした中等・高等統合学校。黒板の前で左側に立っているのが、教育実習の先生。その横に座っているのが政経の先生。ドイツでは州によって異なるが、大学卒業までほとんど授業料がかからないといってもいい。

 もう一つ重要なことがある。

 出生率を上げることと、こどもの教育を無償化することが、経済政策であることだ。それを忘れてはならない。出生率が下がって高齢化が進むと、人口が減って国力が落ちる。働き手が少なくなるからだ。それに加えて、これからの技術革新をベースとした激しい国際競争において生き残るためには、これまで以上に優秀な人材が必要となっている。

 そのため、できるだけたくさんのこどもたちに平等で、公平な教育の機会を与える必要がある。そうして、広い範囲でたくさんの優秀な人材を育てる。それが、経済力を上げる基盤となる。

 日本はすでに、技術革新力という点でも、世界をリードした過去の日本ではない。この点でも、世界から遅れてしまった。悲惨な状況だ。それは、日本の教育制度が古いもので、時代の流れにマッチしなくなっているからだ。経済界のために、上からいわれたことを聞くだけのイエスマンを育てる教育では、もう優秀な人材は育たない。

 覚えるだけの詰め込み教育ではなく、考える教育、それもみんなで一緒に意見を出し合いながら考える教育に切り替えないと、世界で通用する優秀な人材は生まれない。

 それはIT化によって、経済が縦割り構造ではなく、横につながるネットワーク化構造に変わってきたからだ。チームで互いに意見を出し合いながら、まとめていくチームワークが求められる。今の日本の教育は、その要求にまったく適合していない。

 その意味で、将来のニーズに適合した優秀な人材を育成する教育が行われるなら、教育の無償化を行うべきだということだ。これまで通りの古い詰め込み教育を続けるだけなら、教育を無償化しても意味はない。

(2023年3月23日、まさお)

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関連サイト:
幼児教育・保育の無償化(内閣府)

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