|
|
東西ドイツが統一されて25年が経った。
しかし東ベルリンにいくと、今もベルリンの壁が崩壊する前と後がはっきりわかることがある。
写真左の建物は、統一後に外壁が塗り直されたもの。右の建物は壁崩壊のままのものだ。バルコニーが後で取り外された跡もある。 (2015年12月14日) |
|
|
|
|
11月9日は、ユダヤ人居住地域やユダヤ教ジナゴーグなどが襲撃された水晶の夜の日だ。だが、ベルリンの壁が崩壊した日でもある。1989年11月9日の深夜だった。
しかし、この日は水晶の夜の過去を重んじて、壁崩壊を祝ってはならないことになっている。
現在、ベルリン市内ではベルリンの壁はもう3カ所くらいでしか見ることができない。それも、当時のまま保存されているのはそのうちのごく一部だ。
ベルナウ通り(Berneuer Strasse)では、当時壁のあったところに写真のように鉄の棒を立てて壁の過去を記録している。 (2015年11月24日) |
|
|
|
|
11月9日は、水晶の夜の日。1938年11月9日深夜から10日かけて、ユダヤ人居住地域やユダヤ教の会堂であるジナゴーグなどが襲撃され、放火された。
ベルリンの路上では住宅の前に、その住宅に住んでいたユダヤ人が拘束されて強制収容所で亡くなるまでの個人史を記録した「つまずきの石(Stolperstein)」の横にロウソクが灯されていた。
現在その住宅に暮らす住民が、灯したものと見られる。
「つまずきの石」は、彫刻家グンター・デムニクが亡くなったユダヤ人の個人史を調べ、それを正方形の真鍮の『石』に刻んで実際に暮らしていた住宅の前にそれを埋め込んでいる。
ドイツばかりでなく、ヨーロッパ500カ所以上の土地で「つまずきの石」が埋められている。 (2015年11月09日) |
|
|
|
|
ベルリンにある難民収容施設の第2団をお届けする。
ここは、ベルリンにきた難民をまず収容する施設。難民たちはここを宿舎にして難民届けをして登録してもらわなければならない。
この施設から登録する市の機関までは、公共交通を使って約40分。病気で動けなくても、無理をして本人が登録にいかなければならない。
難民収容施設の様子は、「ベルリンの難民収容施設第2団」で写真集としてまとめてある。 (2015年11月03日) |
|
|
|
|
ベルリン郊外にある難民収容施設では、子どもたちが一緒に楽しそうに遊んでいた。大きな子どもは現地校に通う。まだ学校に通えない小さな子どもたちはこのように施設内にある「幼稚園」で遊ぶ。
最終的に難民として受け入れてもらえるかどうか、その決定が下るまで6カ月以上に待たなければならない。
難民収容施設の様子は、「ベルリン郊外にある難民収容施設」で写真集としてまとめてある。 (2015年8月10日) |
|
|
|
|
かつてプロイセン国王とドイツ帝国皇帝の居城だったベルリン王宮。だが、第二次世界大戦の空襲で焼け、最終的に1950年東ドイツ政府によって取り壊され、撤去された。
現在、そのベルリン王宮を復興する工事は進んでおり、その骨格を現しはじめた。まだ骨格だけだが、ベルリンの新しい名所と大きな存在になるのは間違いない。
工事現場の様子は、「ベルリン王宮工事現場、躯体」で写真集としてまとめてある。 (2015年06月04日) |
|
|
|
|
最近、デパートにはめったに行かない。
久しぶりにべルリンの高級デパートにいくと、バービー人形で造られた巨大な『バービー人形』があった。 (2015年04月20日) |
|
|
|
|
この家のファサードには、「この家は、昔違う所にあった」と、大きく書かれている。
その上には、「人は意志さえあれば、すべてを置き換えることができる」と、小さく書かれている。
そういう気持ちさえあれば、この家が違う場所にあったように、人は何でもできるんだといいたいのではないだろうか。
それは、原発についても、平和についてもいえるということだ。 (2015年03月16日) |
|
|
|
|
ベルリンのある写真展から。
写真展はドイツ社民党本部で開催中で、入場は無料。1フロアーの一部だけと小さな写真展だが、たくさんの市民が訪れていた。
写真は50年代、60年代のアメリカの路上の生活を撮ったもの。撮影したのは、ストリート写真家ともいわれるヴィヴィアン・マイアー。亡くなってから作品が公開されて有名になった写真家だ。 (2015年03月07日) |
|
|
|
|
30年ほど前、ベルリンの二階建てバスに乗ると、二階ではこんな感じだった。
二階建てバスは、今も走っている。でも、今はもうこういう乗り合いバスの感じはしない。もっとモダンで、整然としている。
でも、今でも30年前のバスが走っている路線がある。2時間に一本だが、クジャク島から長距離バスセンターまで走っている。 (2015年02月25日) |
|
|
|
|
映画「シンドラーのリスト」は、ドイツ人実業家オスカー・シンドラーがポーランドの都市クラクフで、たくさんのユダヤ人が強制収容所送りになるのを救った実話によるものだった。
その舞台となったシンドラーの工場は、クラクフのゲットー近くにあった。現在、歴史博物館となっている。
写真は、1940年代のクラクフ中心街にある広場の写真。その歴史博物館に展示されていた。
「V」はナチスによって描かれたもの。「勝利」を意味する。
広場には、ユダヤ人などを処刑する処刑台(写真左上)もあった。 (2015年02月04日) |
|
|
|
|
70年前の1月27日、アウシュビッツ強制収容所がソ連赤軍によって解放された。
現在ドイツでは、1月27日は国の追悼の日。国会議事堂で追悼式典が行われる。
その式典を前に1月24日、ドイツ連邦議会の主催で、ドイツのほか、隣国のポーランド、フランス、ロシアなどから集まった若者約80人が一緒にアウシュビッツ強制収容所跡を見学した。
翌25日には、ユダヤ人を助けたドイツ人シンドラーの工場跡を見学。その後には、生存者から直接体験談も聞いた。
若者たちの交流は6日間続き、毎日夕方にはグループに分かれてディカッションが行われた。 (2015年01月27日) |
|
|
|
|
べルリンでは11日、パリで行われる連続テロ事件追悼行進に連帯して、在独フランス大使館前で沈黙の連帯集会が行われた。
集会には、雨にもかかわらず約1万8000人が参加した。
フランス大使館正面には、たくさんの花が献花されていた。 (2015年01月12日) |
|
|