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ベルリンの霧
ベルリンは今、暖かい。小雨の日も多く、湿度が高い。
ベルリンは水の街でもある。川や運河、湖が多い。
暖かい水面に冷たい空気が流れ込むと、水蒸気が発生する。空気の冷たい朝に、こういう現象が起こりやすい。気温が高くなるにつれ、霧は消えていく。
蒸気霧というのだという。
先日午前中に、ベルリン郊外の湖シュラハテンゼーに散歩に行った。その時、水面は幻想的に白い霧に包まれていた。 (2022年12月31日) |
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クリスマス
ベルリンは今、天気がよくない。比較的暖かいが、小雨の日が多い。
その前はとても寒い日が続いていたので、そのギャップは大きい。
生暖かくて天気のよくないまま、クリスマスに入る。
ぼくは日本から帰ってきて、2週間にもならない。まだクリスマスという気分ではない。
ベルリンのクリスマスから年末にかけた雰囲気に慣れるまでには、もう少し時間がかかりそうだ。 (2022年12月24日) |
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高岡の銅器
富山県高岡市は、銅器の町。
暑中見舞いで使ったわが家の風鈴も、高岡製だ。甲高い風鈴の音は、高岡銅器の特徴でもある。
銅器の町だけあって、市内のあちこちに、ブロンズ像が見られる。
特に市内中心にある古城公園は、高岡で制作されたブロンズ像の屋外美術館のようになっている。
銅器の町故のことだと思う。 (2022年12月17日) |
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千本格子の町
富山県高岡市には、「千本格子の家並み」といわれる町がある。
金屋町。通りの両側に並ぶ家の正面は、木製の格子戸と格子壁でできている。
ぼくが小さい時に育った土蔵造りの家もそうだった。わが家の菩提寺が金屋町にあるので、ぼくにとってはそう珍しいことではない。
高岡は銅器の町。日本のお寺の鐘のほとんどは、高岡で造られたもの。
今でこそ、銅器の鋳物工場は郊外に移っている。でも江戸時代初期、金屋町に鋳物師が集められ、鋳物場ができていった。
金屋町は、高岡銅器の発祥地だ。 (2022年12月10日) |
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氷見のグルメ
氷見は漁港の町なので、いつも新鮮で、おいしい魚が手に入る。
ただ、それだけではない。
あまり知られていないが、何としてもすすめたいのは、氷見うどん。買うなら海津屋のうどん。これがうまい。
氷見牛も美味いと聞いているが、まだ食べていない。先日食べたのは、氷見牛入りのコロッケだった。これも美味しかった。
氷見のグルメをいろいろ食べるには、町の駅でもあるひみ番屋街がおすすめ。 (2022年12月03日) |
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氷見
富山県高岡市の北部に隣接するのが氷見市。雨晴海岸沿岸を走る氷見線の終着駅だ。
「氷見」の由来には、いろいろ説がある。たとえば、立山連峰の雪を見れるからとか(氷見)、海の漁り火が見えるところだから(火見)など。
氷見は漁港の町。安土桃山時代から、定置網漁法が発達していたという。漁獲量は、富山県下で第1位だ。
氷見線の結ぶ高岡と氷見は、漫画家の共同ペンネーム藤子不二雄のゆかりの地でもある。藤本弘(高岡)さんと安孫子素雄(氷見)さんの出生地だった。
氷見線には、藤子不二雄の漫画キャラクター車両も走る。 (2022年11月26日) |
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日本で一番小さい酒造屋
富山県高岡市に、日本で一番小さいといわれる酒造屋さんがある。「勝駒」という。
この酒は、米から発酵させてつくったのだとはっきりわかる、新鮮さに溢れるお酒だと思う。
ぼくは、とても好きだ。
20年ほど前までは、高岡の酒屋さんにいけば手に入った。しかし今はもう、店頭に見当たらなくなった。
全国区になり、定価の何倍ものプレニア付きでないと買えないという。 (2022年11月19日) |
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立山連峰
富山県は、北部以外は山に囲まれている。ぼくは、山を見ながら育ったといってもいい。
何といっても、立山連峰だ。立山連峰は県の東部に位置し、南部に伸びる。
天気が良くても、いつも見えるわけではない。
立山連峰には、3000メートルを超える山もある。雲がないか、それより上か、ずっと下にないと、立山連峰は見えない。
ベルリンでは、山がないのが悲しい。 (2022年11月12日) |
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高岡大仏
高岡大佛寺の横に、大仏がある。阿弥陀如来坐像だ。
奈良と鎌倉の大仏と一緒に、日本の三大大仏といわれる。
元々は、13世紀前半に制作された木製大仏。木製大仏は何回も、火事で消失した。
そのため銅器の町高岡の銅器技術を駆使して、20世紀はじめに銅製の大仏がつくられた。
現在の大仏は、2007年に補修された。 (2022年11月05日) |
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七五三
七五三というと、11月15日かと思う人も多いと思う。
ただ、そうでもないらしい。実家のある北陸や北海道など寒い地方では、それよりも早く七五三がはじまっている。
実家のある高岡の古城公園に散歩に出た時、公園内にある射水神社には七五三のお参りにきている家族がいた。
境内には、こどもたちの健康と幸福を祈願する七五三の絵馬もすでにたくさん見られる。
後でカレンダーを見ると、その日は「大安」だった。 (2022年10月29日) |
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瑞龍寺
ぼくは今、富山県高岡市にある実家にきている。
実家から歩いて5分。そこに、曹洞宗の禅寺瑞龍寺がある。江戸時代初期に完成した。禅宗の代表建築として、山門(写真1)、仏殿(写真2)、法堂(写真3)が国宝となっている。
毎週日曜朝には、禅堂(写真4)で早朝座禅が行われている。申し込みもなく、誰でも参加できるという。
実家には、高校を卒業するまで暮らしていた。でもその頃まで、お寺にはまったく関心を持っていなかった。
今遠方のドイツからきて、懐かしく思うのも不思議な気がする。 (2022年10月22日) |
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秋の景色
ベルリンも秋らしくなった。
ツタが赤く紅葉しているのがまぶしい。わが家のベランダにあるイチョウの葉も、真っ黄色になっている。
今年は特に、ススキがあちこちに植えられているのが目立つ。でもそれは、ぼくの気のせいなのか。
ドイツはこれから、日が短くなる。日中もどんよりと曇りがちになる。
今のうちに太陽の陽を浴びて、ビタミンDを体内に蓄積しておきたい。
(2022年10月15日) |
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光の祭典
今年も、ベルリン恒例の「光の祭典」がはじまった。10月07日から16日までの10日間の予定。
エネルギー問題が深刻な時期に、光の祭典によってエネルギーを浪費することには批判もある。
主催者側は、例年より75%省エネになっていると弁解する。その努力の跡は感じられる。だからといって、それでいいのかとの疑問は残る。
ウクライナ戦争の影響から、平和や連帯、自由をテーマにしたモチーフも目立つ。
ただぼくには、ベルリン・ロシア大使館前に置かれたロウソクの光のほうが(3枚目の写真)、インパクトがある。 (2022年10月08日) |
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りんご並木
東ドイツ時代、車でちょっと郊外に出ると、野生のりんご並木があった。それは今も、忘れられない。
野生のりんごは、そのまま食べることもできないではない。だが、それほどおいしくはない。むしろ、ムースなどにして食べた方がいい。
でも、自然そのものだった。
ベルリン郊外ファルケンベルクにある動物愛護施設の周辺には、りんご並木が今も残っている。
今そこでは、たくさんのりんごがなっている。今年はとても豊作だ。
10月3日は、東西ドイツ統一の日。今年で、統一32年となる。 (2022年10月01日) |
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水牛
ベルリンの中心ツォー駅からバスで20分余り西に走ると、ティーフヴェルダーという中洲がある。
ここも、森と沼、小川のある湿地帯だ。小川の辺りにはガーデンハウスが並び、「小さなベニス」とも呼ばれる。
その一角に、水牛が放し飼いされている。
水牛は、湿地帯において植物と共生し、植生を保護するのに最も適しているからだという。自然を人工的に保護する必要はない。
水牛は草食動物なので、一帯にある植物を食べ、自然の中で生息する。 (2022年9月24日) |
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氷河期から残る小川
ベルリン周辺は、水の多いところだ。湖もたくさんある。
目立たないのは、小川や沼もたくさんあること。
ベルリン北西部のアルト・ルューバースには、氷河期の氷河から溶けた水が流れていた小川が残っている。
地域一帯は、自然公園となっている。野鳥の宝庫でもある。
湿地帯には、木でできた遊歩道もある。しかし周辺が、カラカラに乾燥していたのが気になる。 (2022年9月17日) |
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ベルリン王宮
今から72年前の1950年9月、戦争で損傷したまま残っていたベルリン王宮が爆破され、撤去された。
当時の東ドイツ政府の判断だった。
そこには今、ベルリン王宮の外観が再現され、総合博物館施設となっている。
そのベルリン王宮の前には今、賛否両論の議論を経て、東西ドイツ統一のモニュメントが建設中だ。完成すると、最後の写真のようになる。
来年2023年中には、完成する予定という。 (2022年9月10日) |
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第二次世界大戦のはじまった日
1939年9月1月4時45分、ドイツ海軍はバルト海沿岸にあるポーランドのグダニスクを砲撃する。
それが、第二次世界大戦がはじまりだとされる。しかしドイツ空軍は、それよりも5分前、ポーランドの小さな町ヴィエルニを空爆していた。
ゾフィアさんは、その時の生き証人。空爆で破壊された教会の基礎の破片をドイツ東部ドレスデン大空襲の日に、平和のシンボル、和解のシンボルとして持ってきた。
あれから83年後の2022年9月1日、ポーランド政府はドイツ政府に対し、戦争による破壊に対して多額の損害賠償を請求した。
和解が重要だとするゾフィアさんは、どう思っているだろうか。 (2022年9月03日) |
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東ドイツの新幹線
東ドイツには、1960年代に開発された『新幹線』があった。その名前は「VT18.16(1970以降はVT175)」。
1800馬力、最高時速160kmh。ディーゼル車だ。
オーストリア、チェコスロバキア、デンマーク、スウェーデンまで運行されていた。定期運行は1980年代中頃まで。その後、2003年まで非定期に走っていた。
車両はもう、ほとんど残っていない。
ベルリンのリヒテンベルク駅に、1編成置かれている。もう動かない。
もう1編成はノスタルジー走行するため、修理中だ。2023年中に、走行できるようにしたいという。 (2022年8月27日) |
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養蜂場
以前、ベルリンの養蜂場を紹介したことがある。今回も、ベルリンの養蜂場だ。
写真を4枚最後まで見ると、養蜂場がどこにあるのかわかると思う。
建物の屋上にある。この建物は、ドイツ連邦議会の議員会館の一部だ。
ベルリンなど大都市では、こうして建物の屋上に養蜂場をつくるケースが増えている。
市内の住宅のベランダや庭にある花から蜜を持ってくるのだという。 (2022年8月20日) |
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8月13日
8月13日は、東西ベルリンの国境が封鎖された日。
その後順次、ベルリンの壁ができあがっていく。今から61年前の1961年のことだった。
ベルリンの壁があった時代には、8月13日になると、西ベルリン側では東西ベルリン国境検問所前に、ベルリンの壁に抗議する市民が集まっていた。
写真は、1987年8月13日にチェックポイント・チャリー検問所前で撮影した。 (2022年8月13日) |
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8月2日
8月2日は何の日だろう。知っている人はいるだろうか。
この日は、シンティ・ロマの大量虐殺(ホロコースト)を追悼する国際メモリアルデーなのだ。
1944年8月2日から3日にかけ、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所において、たくさんのシンティ・ロマが殺害された。その史実から、この日が選ばれたという。
「ジプシー」という差別用語も使われるシンティ・ロマ。ホロコーストの記念碑の設置においてユダヤ人から差別され、記念碑から排除されたのは、すでに書いたことがある。
ユダヤ人ホロコースト記念碑の近くに、このシンティ・ロマのホロコースト記念碑がある。 (2022年8月07日) |
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ベルリンのお墓
ベルリンで墓地にいくと、あちこちに著名人のお墓を見つけることができる。
文化人や科学者、政治家などの著名人が眠っている。
あまり知られていないのは、産業人や経済人のお墓。
写真は順に、家具製造家のカール・プレヒテル、ジーメンス社を巨大企業にする地盤を作ったカール・フォン・ジーメンス家、ピルで有名なシェアリング社を創立したシェアリング家、ドイツ銀行創立者の一人アーデルベルト・デルブルュック家のお墓だ。
このお墓の豪華さから、ベルリンが過去において産業、経済の中心だったことを感じさせられる。 (2022年7月30日) |
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ヒトラー暗殺未遂
1944年7月20日、ヒトラーは総統本営における作戦会議において暗殺されようとした。
暗殺を計画したのは、陸軍の将校ら。暗殺を実際に実行したのはシュタウフェンベルク大佐だった。
将校らは当初、ヒトラー死亡を確信。しかしヒトラーは軽症で済み、生き残った。
ヒトラー暗殺計画の中心となったのは、国内予備軍司令本部。実行者のシュタウフェンベルク大佐らは、翌日すぐに司令本部の中庭で銃殺される。
国内予備軍司令本部は今、ナチスに抵抗するレジスタンス運動の博物館となり、中庭には抵抗運動で犠牲になった人たちの慰霊碑がある。 (2022年7月23日) |
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ファニーとフェーリクス
今年は、作曲家でピアニストのファニー・ヘンゼルとフェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディの没後175年に当たる。
姉のファニーが5月に、弟のフェーリクスが11月に、姉を追うように亡くなった。
当時ジェンダー問題がなければ、ファニーは今、弟のフェーリクスと同じようにもっと知られていていい存在だった。
ユダヤ系の家系だが、家族はキルスト教に改宗。2人は今、ファニーの夫ヴィルヘルムとそのこどもたちと一緒に、ベルリンの墓地に埋葬されている。
近くには、メンデルスゾーン家の墓の博物館もある。 (2022年7月16日) |
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郵便差出箱
ドイツでは、ドイツポスト直営店(郵便局)が減るばかり。民間店舗がその代理店として、郵便サービスを代行するケースが増えている。
ところがオーデル川沿いのフランクフルト/オーデルでは、昔の郵便局がそのまま使われ、営業している。郵便ポストも普段全く見かけない、昔ながらのものがまだ使用されている。
新しい発見だった。
「郵便差出箱」という珍しい表現を使ってみた。日本ではこれが、郵便ポストの正式名称なのだそうだ。 (2022年7月09日) |
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ベランダの花
今、わが家のベランダにはいろんな花が咲いている。
その中でも、今年はじめて植えたのが最初の写真の花。ドイツ語では日本語に訳すと、『黒い瞳のズザンネ』。日本では、『ヤハズカズラ』というそうだ。
オレンジ色の花びらの真ん中に黒い点。確かに、黒い瞳のようだ。葉はハート型をしている。アフリカ南東部産だという。花が白いものもあるらしい。
朝顔のように蔓性で、茎がその横にあるツタに巻きついていった。 (2022年7月02日) |
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学校の反戦ポスター
ベルリンの国立バレー学校の卒業試験を参観することができた。学校は、5年生から10年生まで。日本でいえば、公立の中高統合校だ。
まず、学校入口のホールに入って驚いた。入口ホールの床に、シリア戦争とウクライナ戦争に反対する反戦ポスターが並んでいる。
生徒たちが書いたものだという。
日本の学校だったら、政治的だとして、すぐに撤去されるはず。
それに対して、学校自らが生徒たちを支持、支援しているのがすごい。 (2022年6月25日) |
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6月17日通り
ベルリンの6月17日通りは、ブランデンブルク門からエルンスト・ロイター広場までの一直線の広い通り。
1953年6月17日、東ドイツの労働者など4万人以上が東ドイツ政府の政策に反発して暴動を起こし、ソ連軍や東ドイツの治安当局によって鎮圧された。多数の死傷者が出る。
それを記録として伝えるため、同年、旧西ベルリン側にある道路が「6月17日通り」と改名された。
ソ連軍による鎮圧は、その後のハンガリー動乱、プラハの春などソ連軍の動員によって民衆を鎮圧する先駆けとなったといってもいい。 (2022年6月18日) |
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事件現場
ベルリンでは、車が故意に歩道に突っ込み、死傷者の出る事件があった。
犠牲になったのは、卒業旅行でドイツ南西部からベルリンに来ていた先生と生徒などだった。
現場は、5年半前にテロ事件のあったすぐ横。それだけに、ベルリンではショックも大きい。
事件翌日もまだ、各国のメディアが取材するほか、追悼にくる市民がいた。
車道と歩道には、警察が現場検証した跡が痛々しく残っている。 (2022年6月11日) |
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ホルンダーの花
今、ホルンダー(日本語ではニワトコかな)の花が満開だ。
今年は例年になく、たくさん咲いていると思う。どこも見事だ。
ホルンダーだけではない。例年になく、植物がとても元気。緑がいきいきしている。
天候のせいだと思う。それほど暑く感じないが、平均気温は例年より高い。降雨量は少ないが、雨が多いようにも感じる。
ホルンダーは花の後に、濃い紫の実をつける。それでシロップやジュースをつくる。 (2022年6月04日) |
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東ドイツの列車
Sバーンの電車に乗っていると、「DR」のマークのついた列車が走っているのを見た。
「DR」とは、「ドイツ帝国鉄道」のこと。まさかと思ったが、旧東ドイツの車両をつなげた列車だ。多分、機関車もそうだろう。
その列車がベルリン中央駅に停車中、慌ててホームに駆け上がり、カメラのシャッターを切った。
すべて旧東ドイツ時代のもので構成された列車。『東ドイツ・ノスタルジック列車』とでもいおうか。
赤い車両は食堂車。ドイツ語ばかりでなく、ロシア語でも書かれている。 (2022年5月28日) |
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ヨーロッパセンター
ポツンと見える建物は、(西)ベルリンに建つ「ヨーロッパセンター」。
今でこそ、ベルリンにおいても高層ビルが増えてきた。だが当時としては、その先駆者だった。1965年5月2日にオープンしている。
ショッピングモールの走りだったといってもいい。同時に、戦後孤島となった西ベルリンの復興を象徴するものだったともいえる。
その目玉は、中央ホールにある水時計(3番目の写真中の緑色の部分)。昔は待ち合わせ場所にもなっっていた。だが今は時代の流れに押され、人影は少ない。 (2022年5月21日) |
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ナチス・ドイツによる焚書
1933年5月10日夜、ベルリン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学(現フンボルト大学)向かいにあるオペラ広場(現ベーベル広場)において、ナチズムの思想に反する本を焼く儀式が行われた。
ベーベル広場では現在、その過去を記憶するため、広場の地下に本のまったくない白い本棚が設置されている。
地下の本棚は、ガラス板越しに見えるようになっている。しかし地上と地下の温度差で、ガラスが曇っていることも多い。
その場合、上から水をかけると、ガラスの曇りが消える。
焚書を扇動したのが、当時の学生や新聞であることも忘れてはならない。 (2022年5月14日) |
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ドイツ降伏
5月08日はドイツ降伏の日。正確にいうと、ドイツ軍が無条件降伏文書に調印した日だ。
ベルリン郊外のカールスホルストにあるソ連赤軍司令本部で調印された。ドイツ国防軍工兵学校兵舎だったところだ。
正式に調印したのは独ソ両国。連合軍は副証人として署名した。
調印されたのが深夜直前だったことから、ドイツでは降伏した日が5月08日。だが、ロシアやウクライナなど旧ソ連諸国では、時差から5月09日が対独戦勝日となっている。
降伏文書に調印された場所は今、博物館となっている。 (2022年5月07日) |
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ヒトラー自殺
今から77年前の1945年4月30日、ヒトラーはベルリンにある地下壕で自殺した。
ソ連赤軍がオーデル川を超え、ベルリンに侵攻する勢いだったからだ。
その地下壕は長い間、そのままになっていた。
東ドイツが1980年代後半、ブランデンブルク門南東に位置するナチスの拠点ヴィルヘルム通り地域を再開発する。その時、地下壕は封鎖された。その上が緑地化され、駐車場となった(地図の7の地点)。
そこには今、当時の歴史を記述するパネルが立っている。 (2022年4月30日) |
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平和のシンボル
ぼくたち個人にとり、平和って何だろうか。
個人個人の体験から、平和のシンボルを見つける。そうして集まったのが、舞台の上に並ぶ。
ポーランド人のゾフィアさんにとり、ナチス・ドイツ軍の空爆で破壊された教会の基礎の破片が、平和のシンボルだ(2番目の写真)。
アンドレアスさんはスペインのゲルニカから、スペイン内戦時にナチス・ドイツ軍の空爆を生き延びたゲルニカの木(オークの木)の葉を持ってきた(3番目の写真)。
1945年2月のドレスデン大空襲を体験したノーラさんには、自宅のベランダに植える白い花が平和の証だ(4番目の写真)。
自分の生活において、平和を見つめたい。 (2022年4月23日) |
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ゼーロウ高地の戦い
今から77年前の4月16日、ジューコフ元帥率いるソ連赤軍がオーデル川(最初の写真)を越えて侵入してきた。ナチス・ドイツの首都ベルリンに侵攻するためだった。
そのためには、ゼーロウ高地を越えなければならない。そこでは、独ソ戦最後の激戦が展開された。それが、ぜーロウ高地の戦いだった。
それを記念する慰霊碑が、ドイツ側に設置されている(2番目の写真)。それは、ソ連赤軍の功績を讃えるものでもある。
ゼーロウ高地には今、ソ連兵の墓石(3番目の写真)、ドイツ兵の墓石(4番目の写真)が並ぶ。戦没した兵士の遺骸は今も、採掘されている。
そして今、ウクライナで戦争が続いている。人類は、戦争から解放されないのか。 (2022年4月16日) |
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在独ウクライナ大使館
ウクライナ戦争は、終わる気配がない。平和はほど遠い。
ベルリンにも毎日、ポーランドからの列車で、ウクライナからの戦争難民がたくさん到着している。
ドイツ社会にはまだ、難民に対するエンパシーがある。
そのエンパシーがどこまで続くのか。それが心配でもある。
ベルリンにある在独ウクライナ大使館にも、毎日たくさんのウクライナ難民が行列をつくっている。 (2022年4月09日) |
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桜より早く咲く花
先週、桜のつぼみ写真の載せた。実はその時、桜はすでにもうほとんど満開だった。
先週それまで、とても好天が続き、日中暖かかったからだ。
桜に似た花だが、桜よりも早く咲く花がある。「シュレーエ(Schlehe)」。それが、今回の花の写真だ。
サクラ属の低木で、後で紺色の小さな実をつける。花は桜よりもずっと白い。
ただもし間違っていたら、これが何という木がご教授いただきたい。 (2022年4月02日) |
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桜の花
ベルリンでは、晴天が続いている。雨がまったく降らない。植物にとっては、過酷な春でもある。
日中は暖かいが、朝晩はまだ寒い。朝晩は冬のコートが必要だ。それでも桜の蕾が大きくなり、花が咲きはじめた。
桜といえば日本。でもヨーロッパにも、たくさんの種類の桜がある。
最初の写真は、本当に桜かどうか確信がない。実際にはもっと、ピンク色をしている。色からすると、ソメイヨシノ。その近くにある西洋ソメイヨシノは、まだ蕾が固そうだった。
後の写真はすべて、八重桜の一種だと思う。 (2022年3月26日) |
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終戦直後のオペラ公演
テアター・デス・ヴェステンス(西部劇場)は今、ミュージカルとオペレッタの劇場となっている。
建物は、19世紀末に建てられた。当初はお芝居の劇場だったが、オペレッタ劇場として大成功。ナチスの時代になると、「国民オペラ劇場」としてナチスの宣伝に使われる。
ナチス・ドイツが降伏したのは、1945年5月8日。破壊された屋根がすぐに修理され、4カ月後の9月2日、ベートヴェンのオペラ⟪フィデリオ⟫が上演される。
その後「ドイツ・オペラハス」として、ベルリン・ドイツオペラが完成するまで、(西)ベルリンのオペラ公演のメッカとなっていた。
終戦4カ月にしてオペラ公演を実現するパワー。文化への憧れの強さなのか。 (2022年3月19日) |
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ウクライナ救援物資
ドイツの公的機関では今、EUやドイツ、ウクライナの旗が半旗になっている。ロシアによるウクライナ侵攻で亡くなった方を追悼するとともに、侵攻に抗議するためだ。
ベルリンにある連邦議会議事堂でも、EUとドイツの旗がすべて半旗になっていた。
一方、救援物資を集めるため、NGOばかりでなく、いろいろな機関や市民有志が活発に活動している。
写真は、ブランデンブルク門前にあるポーランドの文化研究機関。ここでは、平日10時から20時の間、いつでも物資を寄贈できるようになっている。 (2022年3月12日) |
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ウクライナからの難民
ベルリン中央駅は今、ウクライナからポーランド経由で入ってくる難民を受け入れる最初の窓口となっている。
駅構内には、ウクライナの旗と矢印のついた看板があちこちに見られる。
構内は、難民と難民の世話をするボランティア、難民を受け入れるためにきている市民などでごった返していた。
一方ブランデンブルク門前では(最後の写真)、在独ロシア人がロシア人いじめをやめろとデモをしていた。プーチンへの非難どころか、戦争反対のことばは一言もなかった。 (2022年3月05日) |
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ウクライナとの連帯
ベルリンのブランデンブルク門は今、ロシアによるウクライナ侵攻に抗議するとともに、ウクライナとの連帯を示すため、ウクライナの国旗の青色と黄色に電飾されている。
門の前には、ウクライナ出身の市民をはじめ、戦争に反対する市民が、いつも集まっている。反対デモも、毎日のように続いている。
明日27日には、市民団体や労組などの呼びかけで、ブランデンブルク門周辺では、大きなデモ集会が予定されている。 (2022年2月26日) |
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ブランデンブルク門二輪馬車
ベルリンのブランデンブルク門といえば、東西ドイツ統一の平和のシンボルのようになった。その上に、古代ギリシア・ローマの4頭二輪馬車がある。
二輪馬車は銅製で、18世紀につくられた。戦争で破壊されたり、ベルリンの壁崩壊時に損傷したりと、何回も修復されてきた。
銅像には、そのための型も必要。
その石膏製型の修復作業が現在、連邦議会図書館の下で一般公開されている。今年2022年10月末まで。 (2022年2月19日) |
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ポツダム1945年
ぼくは元旦によく、ベルリンとポツダムの境にあるグリーニッケ橋からベルリンに戻るように散歩する。グリーニッケ宮殿の横をユングファー湖の辺りを歩く。
そこは、ベルリンの壁があったところ。最初の写真の右側が西ベルリン。左にある湖は東ドイツ領だった。
遊歩道は、壁のあった国境地帯。道の幅が広くてもおかしくない。でも、ちょっと広すぎるなあと思っていた。
それは、なぜだったのか。
1945年7月15日、米国トルーマン大統領と英国チャーチル首相は、この道を車で通ってポツダム入りしたのだった。ポツダム会談に参加するためだ。
2枚目の写真にある位置に仮設の橋が設置され、2人はそこで湖を渡ったのだった。
当時の歴史については、『ふくちゃんの朗読出前します』でも朗読する。 (2022年2月12日) |
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ベルリン・ローゼンタール通り39番地。その入り口は、こんな風になっている。
そこには、オットー・ヴァイトの工房があった。目の見えないユダヤ人などが工員として働いていた。オットー・ヴァイトはそのユダヤ人工員を、ナチスから救った。その話はすでに、ベルリーナールフトでも取り上げた。
そこは今、博物館になっている。
そのすぐ横に、アンネ・フランク・センターもある。ここは特に、青少年向けのプロジェクトに力を入れ、青少年向けの学習教材も用意されている。
ドイツの歴史を語る上で、忘れてはならない場所だ。 (2022年2月05日) |
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1月27日はドイツでは、ナチス犠牲者を追悼する日。アウシュヴィッツ強制収容所が解放された日を祈念している。
ドイツは過去の過ちを忘れないように、ホロコースト(大量虐殺)祈念碑を設置した。だがそこに、差別があるのは知られていない。
ドイツ側は祈念碑において、すべての犠牲者を一緒に追悼したかった。しかしユダヤ人側が、それを受け入れなかった。祈念碑は、ユダヤ人犠牲者だけを追悼するものとなる。
でも犠牲者は、ユダヤ人だけではない。シンティ・ロマの祈念碑(最初の写真)と同性愛者の祈念碑(写真2枚目と3枚目)、障がい者の祈念碑(写真4枚目)がある。 (2022年1月29日) |
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今から80年前の1942年1月20日、ベルリン郊外の湖畔でヴァンゼー会議が行われた。ナチスドイツはそこで、ユダヤ人を組織的に大量虐殺することを決議する。
ベルリン中心にあるローゼンタール通り39番地。そこには、ほうきやブラシを製造するオットー・ヴァイトの工房があった。工房では、目の見えないユダヤ人や耳の聞こえないユダヤ人が働いていた。
オットー・ヴァイトは、自分のユダヤ人工員をナチスの大量虐殺から救った功労者だった。
その功績を讃え、ベルリン中央駅北の新開発地区にできた広場が、「オット・ヴァイト広場」と命名された。ローゼンタール通り39番地には今、オットー・ヴァイト博物館がある。 (2022年1月22日) |
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今日1月15日は、ドイツ共産党を設立したローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの命日。2人は103年前に、暗殺された。
最初の写真は、ローザ・ルクセンブルクの遺体が投げ捨てられた運河の辺りにある記念碑。3枚目の写真は、カール・リープクネヒトが射殺された池の辺りにある記念碑だ。
2つの記念碑は、数百メートルしか離れていない。
記念碑は、世界感が異なるからといって、人が簡単に殺害されてはならないことを警告している。 (2022年1月15日) |
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ベルリンは昨日から、少し寒くなっている。それでも、日中は氷点下とはならない。
クリスマスから年末年始にかけ、ベルリンは例年になく暖かかった。日中は、10度近くになることもあった。
そこでちょっと古い写真だが、寒い感じとなるような写真を取り上げてみた。
写真はベルリンではなく、ドイツ北東部のヒッデンゼー島で撮ったもの。
この時は、島までの海が凍っていた。フェリーは、氷雪船が氷を砕いた航路だけを走っていた。 (2022年1月08日) |
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あけましておめでとうございます。
本年も、ベルリン@対話工房をよろしくお願いします。
クマのサンタクロースを白虎に衣替えしてみました。白虎とは見えないかもしれません。
でも同じネコ科のタロウは、とても興味を持ってくれました。
タロウが白虎に関心の持ってくれたように、ベルリン@対話工房ではこれからもいろいろ関心を持っていただける記事を届けていきたいと思います。
ベルリン、2022年元旦 (2022年1月01日) |
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