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ボイセル通り駅
ボイセル通り駅ができたのは1894年5月。環状線ができた1872年に設置された「モアビート駅」が分割、移設されてできた。モアビート駅はその後、貨物専用駅として残り、現在も環状線の基点(ゼロ地点)として、環状線の距離はそこから算出されている。
ボイセル通り駅は戦中破壊され、ベルリンの壁ができた後の1962年、簡単な平屋建ての駅舎を設置して運行を再開。しかし70年代は、西ベルリン西部のシュパンダウ駅との往復通行の終着・始発駅になっていた。
1980年の西ベルリンでの鉄道職員ストライキ後、駅ホームが撤去されるなど、駅は使われていなかった。
駅が復活するのは統一後。1999年12月、Sバーン環状線北部の3つの駅が同時に再オープンした時だった。 (2024年12月28日) |
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墓石とカモ
ドイツのコメディアン王ロリオのお墓が、ベルリンにある。
お墓に行くと目立つのが、プラスチック製のカモのおもちゃだ。いつもなぜ、カモなのかと思っていた。
最近になってようやく、ロリオのつくった小話に由来することに気づいた。
男性二人がバスタブにつかっている。バスタブの前に、カモのおもちゃがある。二人は、カモをバスタブに入れるか入れないかで喧嘩に。その時いわれたのが、「カモは外だよ」だった。
お墓でも、カモは墓石の外に残ったまま。墓石の前には、きれいな池があるんだけどなあ。。。 (2024年12月21日) |
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ユンクフェルンハイデ駅
駅名の「ユンクフェルンハイデ」は、駅の北に同名の大きな森があったことに由来する。「ユンクフファー(未婚の娘、処女の意)」と「ハイデ(荒野の意)」の合成語。森は中世において、森の西側にあった修道院の修道女家族の所有であった。
Sバーン環状線でも、旧西ベルリン側のローカル線、地下鉄の乗り換え駅として重要なハブ駅の一つだ。
1884年にオープンし、終戦間際の1945年4月まで運用されていた。
戦後すぐに、まずローカル線に利用され、Sバーンでの運用は1951年になってから。しかし1980年のストライキで運用が停止され、再運用されるにはドイツ統一を待たねばならなかった。
再運用は環状線の駅の中でも遅く、1997年4月になってから。環状線が完全に環状運行されるにはまだ、5年かかった。 (2024年12月14日) |
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灰色の秋
秋から冬のドイツでは、朝がなかなか明るくならない。日が暮れるのも早い。午後3時を過ぎると、暗くなり出す。
日中も曇りで灰色。灰色と暗い時間が多く、気分的に滅入ってしまう人も多い。
暗い時期でも、すっきりと晴れて太陽が出る日もある。天気がいいと寒い。でもカラッとした感じがする。そういう日は救われた感じがする。
先日ドイツ北東部にいた時、12月はじめだというのに、カラッとした日に恵まれた。寒くても、こういう日は外に出て太陽に当たりたい。
最初の2枚が朝の写真。後の2枚は夕日が沈む写真だ。 (2024年12月07日) |
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ヴェストエンド駅
ヴェストエンド駅は1877年11月、「シャルロッテンブルク・ヴェストエンド駅」としてオープンした。1884年駅舎が設置され、ホームも4つに拡張された。
そのうちの一つは(3番目の写真)、後のプロイセン王フリードリヒ3世が皇太子時代に利用した皇室用のホームだった。皇太子が居住したシャルロッテンブルク宮殿がすぐ近くにあるからだ。
現在ホームは2つ残っているが、そのうちの一つだけが運用され(4番目の写真)、Sバーン環状線用に使われている。
1884年にネオルネッサンス様式で設置された駅舎(2番目の写真)もオフィスビルに使われている。駅ホームへの出入り用には、南北に同型の鉄骨のモダンな駅舎が設置されている(最初の写真)。
駅は他の旧西ベルリンのSバーン環状線駅同様、1980年に運用が停止され、1993年に再オープンした。 (2024年12月02日) |
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メッセ北駅
メッセ北駅は、駅から西側を走る地下鉄線が1908年に帝国首相広場(現在のテオドア・ホイス広場)に延長されたのに伴い、1916年にオープンした。当時は、「ヴィッツレーベン駅」といった。
都市鉄道の環状線と地下鉄線の接続駅とするためだった。当時は、環状線とシャルロッテンブルク駅からの都市鉄道東西線の駅でもあった。
しかし東西線からの連絡線が戦争で破壊され、1944年からは環状線だけの駅となる。
現在残っている駅舎(4番目の写真)は駅がオープンした時からのもの。文化財保護建築物になっている。
現在の駅名は2002年からのもので、正式には「メッセ北|ICC(国際会議センター)」という。今年2024年12月15日からは「メッセ北|ZOB(中央長距離バスターミナル)」に変更される。 (2024年11月23日) |
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ベルリンの壁崩壊35年
ベルリンの壁が崩壊して35年となる11月9日、ベルリンでブランデンブルク門を中心に、一般市民がベルリンの壁をテーマにして描いた絵が展示されていた。
総数5000点。絵は壁のあったところに、『壁』のように並べられている。市民が壁崩壊に対する自分の思いを描く絵を募集して展示するのは、とてもいいアイディアだった。
その中に、東ドイツの歩行者信号のマークだった「アンペルマン」が混じっている。アンペルマンは東ドイツから残った少ない『遺産』の一つ。それが赤になっていた。
ぼくだったら、信号は青にしておくけどなあ。 (2024年11月16日) |
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11月9日
11月9日は、ベルリンの壁が崩壊した日であり、ジナゴーグ(ユダヤ教会)が放火された水晶の夜の日である。ベルリン壁崩壊が35年前、水晶の夜は86年前のことだった。
ベルリンの壁は23時半頃、ベルリン・ボルンホルム国境検問所で当直長ハラルド・ジェーガーが国境のゲートを開けた。その時いったことばが、「いますべて開けるからな」(最初の写真)だった。それとともに、東ドイツ市民が西ベルリンへと向かう。
86年後のドイツでは11月9日を前に、「つまずきの石」といわれるユダヤ人が拘束され、殺害された過去を記録する真鍮の銘板が、住民によってきれいにされる(3番目の写真)。
過去はどうすれば、現在に語り継いでいけるのか。それが、今のぼくたちに問われている。 (2024年11月09日) |
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地域暖房熱供給施設
写真は、1900年に稼働した火力発電所。シャルロッテンブルク地区のシュプレー川辺りにある。左からボイラー棟、管理棟、管理職住宅棟と並ぶ。
シャルロッテンブルクは当時まだ、独立した都市。トラムや街灯に電気を供給するため、市当局が設置を決めた。
1912年からは、シャルロッテンブルク市役所に暖房熱の供給を開始。地域暖房熱供給の走りとなる。
そのために、シュプレー川の上に橋が設置された。橋は歩行者用だが、その下に暖房熱用の配管が敷設される。
建物は、ブランデンブルクのマルク地方風ゴシック様式のレンガ造り。シャルロッテンブルク市庁舎とともに、市のトレードマークだった。 (2024年11月02日) |
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ハーレンゼー駅
Sバーン環状線のハーレンゼー駅は、旧西ベルリン繁華街クーダム通りの西端にある。
環状線が北部に延長される1877年に設置された。当初は「グルーネヴァルト駅」といった。1884年駅が北部に移転されるのに伴い、「ハーレンゼー駅」と改名される。
その時設置された駅舎は新ロマン派様式のレンガ造りの建物だったが、第二次世界大戦の空襲で破壊される。その後も廃墟のまま駅舎として利用されていたが、ハーレンゼー橋を再建設するのに伴い撤去。1960年、パビリオン式の新しい駅舎が新設された。
しかし1961年のベルリンの壁の建設と1980年の西ベルリンSバーン職員のストライキで、西ベルリン側で1980年に環状線の運行が中止。新駅舎も1993年、環状線が再運行される直前に撤去された。
現在の駅舎は、その時に新設されたもの。 (2024年10月26日) |
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朝焼けと金色のエルゼ
わが家からはちょうど日の出の方向に、戦勝記念塔の上に立つ金色の勝利の女神ヴィクトリアが見える。
別称「金色のエルゼ」ともいわれる。それは、19世紀半ばの人気女性作家E. マルリットの作品『金色のエルゼ』に基づく。
金色のエルぜは、大きくなったり、小さくなったり見えるから不思議。多分、光の具合だと思う。
朝焼けの時は黒いシルエットのように見える。オレンジを背景にしたエルゼのシルエットは、自然のもたらす最高の芸術だ。 (2024年10月19日) |
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秋の朝焼け
今この時期、7時半前後に日の出となる。
天気のいい日、日の出前の7時過ぎに東の空を見ると、朝焼けがとてもきれいな日がある。
この日は、雲が細い紐や帯のようになっていた。
その雲に朝日の光があたって、とても見事な朝焼けが醸し出されていた。 (2024年10月12日) |
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スイス式ハウス
ポツダムのユネスコ世界遺産というと、サンスーシ宮殿と公園しか思い浮かばない人が多いかもしれない。しかし、ポツダムとベルリンにあるプロイセン王国の宮殿や公園のほとんどがユネスコの世界遺産となっている。
世界遺産のバーベルスベルク公園向いのクライン・グリーニッケ地区も世界遺産に属する。
クライン・グリーニッケ地区は、旧西ベルリンの西端にあるグリーニッケ宮殿と公園の南に位置するが、ここは旧東独に属し、『陸の孤島』のような存在だった。
そのクライン・グリーニッケ地区に19世紀後半、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の三男カール・フォン・プロイセンが建てさせたスイス式ハウスがある。当時全体で、12軒のスイス式ハウスが建てられた。
しかしベルリンの壁が1961年に建設されて東西が分割されると、国境地帯ということからスイス式ハウスの6軒は撤去され、現在6軒だけが残っている。 (2024年10月05日) |
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白い湖
白い湖は、ベルリン東部ヴァイセンゼー地区にある小さな湖。名前は、氷河時代の氷が溶けてできたことに由来すると見られる。
地区名もそれに由来する。ドイツ語の「ヴァイス」は白いという意味。「ゼー」は湖だ。
湖には20世紀はじめにできた浜辺があり、今も市民の水浴場となっている。
湖畔のミルクハウス(最後の写真)でビールを飲みながら、秋晴れの景色を見てのんびるするのもいい。 (2024年9月28日) |
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中秋の名月
中秋とは旧暦の8月15日のこと。ちょうど秋の真ん中にあたる。月が一番きれいな時期だとされる。
日本ではその時期に、月見という風習がある。しかしドイツに、そんな風習はない。
その中秋の名月の満月がドイツでは、9月18日だった。月は、地平線を上がってくるとまだ赤い。高くなるとともに黄色くなる。
翌朝、月はまだ西の空に輝いていた。そのときはもう白い。 (2024年9月21日) |
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ホーエンツォレルンダム駅
ホーエンツォレルンダム駅は、ホーエンツォレルンダム地区住宅街が設置されるのに伴い、環状線の駅として1910年にオープンした。
1980年のストライキでSバーン環状線の運用が停止され、駅も閉鎖された。しかし駅舎自体は、1988年から回収工事が行われ、駅ホームはホーエンツォレルンダム通りの橋の下にちょうど入るように移設されている。
東西ドイツ統一後、Sバーン環状線が整備されて1993年12月に再運行を開始するのに伴い、駅も再オープンした。
現在、ホーエンツォレルンダム通り橋の向かい側からも駅ホームに入れるようになっているが、それは2008年になってからだ。 (2024年9月14日) |
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ハイデルベルク広場駅
ハイデルベルク広場駅はまず1833年ベルリン環状線の開設とともに、地区名に基づき「シュマルゲンドルフ駅」としてオープンした。
その後1890年代前半に、現在も残るネオロマン様式の駅舎と連絡路ができている(最初の写真左)。
駅は戦争の被害を受けず、1950年代も1920年当時の面影を残していた。
しかしその後、ベルリンの壁による東西分割で、西ベルリン側でSバーン環状線の利用者が激減。駅舎はメンテナンスされない状態となり、1980年のストライキでSバーン環状線の運用が停止され、駅も閉鎖された。
古い駅舎はその後ディスコなどに利用され、今も駅の一部としては利用されていない。
東西ドイツ統一後、Sバーン環状線が整備されるのに伴い、駅は地下鉄の接続駅として地下鉄駅側に移設される。地下鉄の駅と同じ「ハイデルベルク広場駅」に改名され、1993年12月に再オープンした。 (2024年9月07日) |
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庭の置物
庭やガーデンハウスには、植物だけでなく、いろんな置物もあったほうが庭らしく、調和がとれるようになる。
日本庭園に石や石塔などを置くのも、意味があることなのだ。置物は、庭の一部として必要なのだと思う。
ドイツには、「Gartenzwerg」という庭に置く、小人の人形がある。しかし現在、ほとんどがプラスチック製になってしまったのが残念。
そこで今回は、友人のガーデンハウスやわが家のバルコニーにある置物を紹介しておきたい。
うむ。生きたカエルも置物だよね。 (2024年8月31日) |
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一番おきな満月
写真は、8月21日朝6時過ぎに撮った月の写真。
この8月に見える満月は、その年の一番大きな満月(スーパームーン)で、ドイツでは19日18時26分だった。21日早朝に見た月はまだ、満月のようにきれいに輝いていた。
ドイツでは8月の満月は「収穫の月」といわれるが、今年8月のこの満月は「ブルームーン」であった。
ブルームーンとは、二分二至(春分、夏至、秋分、冬至)で区切られる季節中に4回満月があるとき、その3つ目の満月のことをいう。少し青く見える。 (2024年8月24日) |
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ガーデンハウス
先日、友人のガーデンハウスに遊びにいった。ガーデンハウスといっても、ベルリンのほぼ中心にあるから、近くてありがたい。
ガーデンハウスは、自然の宝庫。植物だけではなく、昆虫などの動物にとってもとてな大切なところだ。
最初の写真は、ミツバチの巣箱。ここにメスのミツバチが産卵して穴を塞ぐ。次の写真はマルハナバチの巣箱だが、入ったことがないという。
リンゴの木にかけてある鳥の巣も、なかなか使ってもらえない。でも小さな池には、カエルが何匹もたむろしていた。 (2024年8月17日) |
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朝顔
わが家のバルコニーでは今、毎朝朝顔が咲いている。
だいたい7つから10の花が咲く。花は2種類。薄紫と青だ。
朝顔の入れてあるプランターでは毎年春になると、何もしなくても芽が出てくる。それを株分ないし間引きするだけ。余った苗は、友人に分けたりしている。
今年の夏は、なかなか花がつかないので心配していた。だが7月後半になってようやく、花を咲かせるようになった。 (2024年8月10日) |
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連邦広場駅
連邦広場駅は、ベルリン環状線が開通する1877年に開設された。当時は、「ヴィルマースドルフ・フリーデナウ駅」といった。地名に由来する名称だった。
ただSバーンの停車駅になるのは、Sバーンが電化された1928年になってから。駅名も「ヴィルマースドルフ駅」に改名された。
駅はしかし、1980年にSバーンのストライキで旧西べルリンを走る環状線の運行が停止されたことにより、駅は閉鎖された。
統一後に環状線を再運行するのに伴い、駅は地下鉄との乗り換えに便利なように連邦広場方向に移設され、1993年12月に再オープンした。駅名も「連邦広場駅」となる。
地下鉄との乗り換え駅でもある同駅は、ベルリンのSバーンでも利用客の多い重要な駅となっている。 (2024年8月03日) |
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2対1
ドイツ映画『2対1』が公開されたばかり。さて、この「2対1」とは何のことだろうか?
今から34年前の7月1日、統一を前に東西ドイツの通貨が西独マルクに統一された。それとともに、東独マルクは使えなくなる。
もちろん、東独マルクを西独マルクに両替することができた。その時の両替レートの中心になったのが、この2対1だった。
映画は、当時の通貨統一を取り扱ったコメディー映画。
そこで今回は、なくなった東独マルク紙幣の裏の写真を届けたい。社会主義国家らしさを感じる。
写真は順に、100マルク札(首都ベルリンのウンター・デン・リンデンから見た共和国宮殿。国会議事堂があった)、50マルク札(北東部のPCK石油精製工場)、20マルク札(学校から出てくる生徒たち)、10マルク札(ラインスベルク原発中央監視室)。 (2024年7月27日) |
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インスブルック広場駅
Sバーン環状線のインスブルック広場駅は、環状線の駅では最も新しい駅。1933年に設置されている。
地下鉄インスブルック広場駅が1910年に開設されているのに比べると、遅い。
駅は戦中閉鎖され、1945年の終戦前後に再オープンした。しかしその後、都市高速道路の建設と地下鉄の移設などのため、1972年5月から1979年9月まで閉鎖。
その直後に旧西ベルリンでの鉄道職員のストライキがあり、駅は運用されないまま、ベルリンの壁の崩壊、ドイツ統一を迎える。
駅が再運用されるのは、1993年12月になってからだ。 (2024年7月20日) |
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住民の広場
先日出先で見つけた小さな広場。その広場が、ちょっと違うと感じたので調べてみた。
広場は「レオン・イェッセル広場」。広場の中心にキノコの噴水があるので(最初の写真)、「キノコ広場」ともいわれているという。
なぜ、ちょっと違うと感じたのか。
住民の手作りの匂いがし、その場に密着していて、落ち着いた雰囲気があったからだ。犬は噴水の水につかったまま、離れようとしなかった(2番目の写真)。
広場ができたのは1984年。その後地元住民有志が共生の場として、共同で広場を造園、造形してきた。ベンチ(3番目の写真)や電話ボックスの図書館(4番目の写真)などもそうだ。
広場に面するレストラン「ガルソン」の昼のランチは、安くておすすめ。 (2024年7月13日) |
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テムペルホーフ駅
駅は、環状線が1871年にできるのに伴って設置された。ただその時は、もう少し東側にあった。
1895年近くの軍基地寄りに移設され、現在の位置になる。
その時、現在残っているホームの屋根ができている。屋根の柱(2番目の写真)は鋳鉄製で、そのタイプはポツダム方面に向かう現在のSバーンの駅でもみることができる。
最初の写真にあるホーム上の建物は、1905年にできた信号操作所。
駅は西ベルリン側にある。1980年の西側鉄道職員のストライキとともに環状線の運用が停止され、閉鎖されていた。
駅が再びオープンしたのは、統一後の1993年12月になってからだ。
(2024年7月06日) |
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ホオズキ
今回は、わが家のベランダにあるホオズキの写真。
でも花や葉が、日本で見るホオズキとはちょっと違うよと思う人もいると思う。ぼくがこどもの時に、実から種を出して膨らませて遊んだホオズキとも違う。
日本のホオズキは主に観賞用、このホオズキは食用だからだ。
日本では食用ホオズキを「ブドウホオズキ」といったりするらしい。確かにドイツ語の食用ホオズキには、「Beere」と「ベリー」ということばがついている。
この食用ホオズキは多年生らしいのだが、越冬してくれるかな。 (2024年6月29日) |
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ヘルマン通り駅
ヘルマン通り駅は、1872年部分的に運行を開始した環状線が1887年から拡張されるのに伴って開設された。
当時はまだ、環状線内側となるノイケルン側にしか駅舎がなかった。環状線外側にも駅舎ができたのは、1910年になってから。
しかし戦争で駅舎が大きな被害を受け、1945年4月に駅の運用が停止された。駅舎は戦後、1960年代、70年代に修復、解体、新設、閉鎖などを繰り返す。
1980年のSバーンのストライキ以降、ヘルマン通り駅はもう使用されなかった。同駅はドイツ統一後、環状線を復活させる過程で新しく設置され、現在の駅舎は1993年にオープンした。
駅舎は、緑色を青色を基調にしている。緑はSバーンを、青は地下鉄を意味し、Sバーンと地下鉄の駅のあるハブ駅であることを象徴している。 (2024年6月22日) |
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ノイケルン駅
ノイケルン駅が開設されたのは、1872年。当初は地元の町の名称から、「リックスドルフ駅」といれていた。
ただリックスドルフという名称の評判が悪いことから、1912年町は「ノイケルン」に改名され、駅名も「ノイケルン駅」となる。
ノイケルンがベルリンの一部になったのは、1920年。現在の駅舎は1930年代はじめに、地下鉄とSバーンの乗り換え用に新しい駅舎をつくることになってできたもの。
「ケルン」というと、ドイツ西部の大都市ケルン(Köln)を思うかもしれない。しかしベルリンのケルンはKöllnで、lが2つとなっている。
ドイツ西部のケルンとは関係がない。 (2024年6月15日) |
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ゾンネンアレー駅
「ゾンネンアレー」は「太陽の並木道」という意味。駅名は戦後、道路名の変更に伴いそう改名された。
駅舎ができたのは1912年。当時は、「フィリードリ王通り駅」といった。1888年に99日間だけ王に就任していたフリードリヒ3世に由来する。
ナチス時代には、通り名がヒトラーの生地にちなんで改名され、1939年に「ブラウナウ通り駅」と呼ばれた。
終戦後「ゾンネンアレー駅」となるわけだが、1961年に東西ベルリンを分割する壁ができると、東側のトレプトウ公園駅との間が閉鎖され、ゾンネンアレー駅は西側の最終駅の一つとなった。
駅舎は1989年に改築されているが、トレプトウ公園駅とゾンネンアレー駅が再び開通して環状線が元に戻るのは、1997年末になってからだった。 (2024年6月08日) |
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コットブスの劇場
前回紹介したゲルリッツの北西に、コットブスという町がある。ラウジッツ地方の中心的な町だ。
コットブスでは元々繊維産業が盛んで、市民の意向で20世紀はじめに劇場が建設されている。
設計したのは、ベルンハルト・ゼーリング。ベルリンの西部劇場の設計でも知られる。こちらは、ネオバロック様式だ。
それに対し、コットブスの劇場はアール・ヌーヴォー様式。芝居ばかりでなく、オペラ、コンサートの公演にも使われる。劇場が独自にオーケストラを保有し、音楽公演を行う。それも、当時の市民の意向だった。
地方の町が町のオーケストラを持って、オペラ公演も行われる。今となっては、ドイツにしか残っていない文化の伝統であり、豊かさだ。 (2024年6月01日) |
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ゲルリッツ
戦後、ナイセ川を境にしてドイツとポーランドに分断されたゲルリッツ。元々は、11世紀後半から記録に残る古い町だ。ドレスデンやエアフルトよりも古い。
戦争で破壊されず、ドイツでも文化遺産として保護された建物が最も多い。聖ヤコブ巡礼の道のルート(2番目の写真)でもあった。
巡礼の道に並ぶ建物の入り口には、写真のような石台が目立つ(最初の写真)。ゲルリッツは商人の町で、商人はこの台に座ながら巡礼の道を歩く人に話しかけ、情報を入手していたのだという。
古い町だけに、古い建築様式の宝庫でもある。後期ゴシックから、ルネッサンス(5番目の写真)、バロック(3番目の写真)、アール・ヌーヴォー(9番目の写真)と豊富だ。商人の町だけに豊かで、小さな町にしては造りが大きく(6番目の写真)、アーケード街(7番目の写真)も多い。
小型の古いパリのような感じもする。 (2024年5月25日) |
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分割された町
ドイツとポーランドの国境は戦後、オーデル/ナイセ川と規定された。それに伴い、ドイツ南東部ラウジッツ地方の町ゲルリッツは、ナイセ川(写真の川)を境に分割される。
ドイツ側はゲルリッツのままだが、ポーランド側はズゴジェレツとなる。ポーランド側に住むドイツ人は追放され、ポーランド人が入植。ギリシャ内戦により、1万人以上の共産主義パルチザンなどのギリシャ難民も避難してくる。
ポーランドは冷戦後、2004年EUに加盟。2007年シェンゲン協定に加盟し、国境での検問も廃止される。戦後分割された町は現在、協力関係を密にし、共に発展しようとしている。すでに、定期的に共同議会も開催されている。
最初の写真左がゲルリッツのウルズ市長、右がズゴジェレツのグロニチュ町長。分割前のまま残っているゲルリッツ駅舎内(最後の写真)で撮影した。 (2024年5月18日) |
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ブランデンブルク門の周りを緑化?
今、ブランデンブルク門から戦勝記念塔の間の道路に、緑色の人工芝を張る工事が行われている。
ブランデンブルク門の前(正確には後方)には、門を取り囲むように白い支柱が建てられ、大きなサッカーのゴール枠をイメージする。そこでは、サッカーの試合が放映されるという。
6月14日からドイツで開催されるサッカー欧州選手権のため、パブリックビューイングが設置されているのだ。
こうして見ると、ブランデンブルク門周辺から自動車を締め出して、完全に緑化してしまうのもいいよね。 (2024年5月11日、16日写真一部差し替え) |
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トレプトウ公園駅
トレプトウ公園に隣接する駅。1875年、「トレプトウ駅」として開設された。
当時は、環状線だけの駅。10年後に、ドイツ南東に向かう長距離用のゲーリッツ線が接続された。現在はそれが、Sバーン東西線からベルリン南東部のベルリン・ブランデンブルク国際空港に向かうS9号線の線路として利用されている。
「トレプトウ公園駅」と呼ばれるようになったのは、1937年から。
戦後東西ベルリンに分割されると、駅は環状線における東ベルリン最後の駅となり、ベルリンの壁が建設されるまでは国境検問所ともなっていた。
ベルリンの壁建設後、同駅から西ベルリンに向かう線路は閉鎖される。それが再開通したのは、1997年末になってからだ。 (2024年5月04日) |
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カスパー・ダヴィート・フリードリヒ
今年2024年は、ドイツ・ロマン主義の代表的画家カスパー・ダヴィート・フリードリヒの生誕250年の年。
フリードリヒのコレクションを持つハンブルクとベルリン、ドレスデンでフリードリヒ展が開催される。現在はベルリンの番で、8月04日まで。オンライン・チケットはもう、6月まで完売だという。
フリードリヒの風景画では、見る側との間でコミュニケーションが起こる。その点で現代美術につながるものがあり、とてもモダンだ。印象派の絵画よりもモダンだと思う。
それは一つに、フリードリヒが風景を見ながら作品を完成させたのではなく、アトリで自分で見た風景を消化してから構想をたて(3番目の写真)、絵の中にビジョンを提示しているからだと思う。
フリードリヒはほとんど自画像を描いていない。直筆の自画像は最初写真のようにスケッチしかない。 (2024年4月27日) |
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ひょう(雹)
もう4月中旬というのに、ベルリンはここのところまた寒い。洗濯してタンスにしまっておいた厚手のコートとマフラーが必要なくらいだ。
先日急に、屋根と窓ガラスからバタバタバタとすごい音がする。何だと思ったら、大きなひょう(雹)が降っていた。
ひょう(雹)は、わが家のバルコニーの植物にも結構被害をもたらした。ブルベリーの花は落ちるし、プチトマトの葉はズタズタに引きちぎられて落ちていた。
バルコニーでもそうなのだから、農地での被害も心配だ。 (2024年4月20日) |
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フランクフルト並木通り駅
フランクフルト並木通り駅は、1890/91年にオープンした。その時にできたレンガ造りの駅舎が今も、残っている(最初の写真)。
ただ駅自体はその前の1872年に開設され、その時は「フリードリヒスベルク駅」という名前だった。近くに、同名のガーデンハウス地帯があったからだ。
東ドイツ建国の1949年からベルリンの壁のできる1961年までは「スターリン並木通り駅」だったが、東ドイツにおいて脱スターリン化が進み、「フランクフルト並木通り駅」に戻る。
「フランクフルト」とあるのは、環状線と交差するフランクフルト並木通りをまっすぐにいくと、ベルリンから東にあるフランクフルト/オーデルに至るからだ。フランクフルト/マインとは関係がない。 (2024年4月13日) |
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サクラのつぼみ
ベルリン南にある東西ドイツの国境地帯跡に、日本からの寄付でサクラの木が植えられ、サクラ並木ができている。
八重サクラの一種で、花はかなりピンク色だ。春になると人々が、日本のように『ハナミ』に訪れる。
4月に入って、そのサクラ並木に行ってみた。つぼみがかなり赤くなっているが、花はまだだった。
ベルリンでは今週末から来週、初夏のように暑くなる予報。サクラの花がまもなく見られるのではないか。 (2024年4月06日) |
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シュトルコウ通り駅
シュトルコウ通り駅には、ホームに屋根がない。環状線では唯一だ。
中央にある駅ホームは、細長い歩道橋からしか入れない(2番目の写真)。現在歩道橋は、205メートルある。2002年までは505メートルもあった。ベルリンでは一番長い。残っている部分は現在、文化財保護物件となっている。
歩道橋は元々、駅横にあった屠殺場への連絡路。駅は1977年まで「中央屠殺場駅」といわれた。屠殺場は1976年に一部、1990年に完全閉鎖された。
1881年にオープンした駅は戦後すぐに旧ソ連軍占領基地の専用駅として使われ、その後1947年に閉鎖。再び公共駅として利用されるようになるのは1951年からだ。 (2024年3月30日) |
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ランツベルク並木通り駅
ランツベルク並木通り駅は、1895年に環状線とランツベルク並木通りの交差する地点に開設された。
ランツベルク並木通りが東ドイツ建国後の1950年に「レーニン並木通り」と改名されたことに伴い、駅名も「レーニン並木通り駅」となる。しかしドイツ統一後の1992年、旧名の「ランツベルク並木通り駅」に戻された。
東ドイツの雰囲気の残る駅だったと思ったが、ホームにガラス張りの屋根ができてモダンに感じるようになった。
東ドイツの雰囲気を残しているのは、橋にあるバラックのような駅出入り口だろうか(3番目の写真)。 (2024年3月23日) |
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グライフスヴァルト通り駅
グライフスヴァルト通り駅は、1875年に設置された。当時は、地区の名前から「ヴァイセンぜー駅」と呼ばれていた。
「グライフスヴァルト通り駅」に改名されたのは、戦後の1946年になってから。しかしそれも1986年まで。駅近くにあったガス工場跡に集合住宅と公園ができたのに合わせて、「エルンスト・テールマン公園駅」と改名された。東西ドイツ統一後の1993年、駅は再び「グライフスヴァルト通り駅」に戻される。
エルンスト・テールマンは戦前、ドイツ共産党の議長だった。
駅横に線路が何本もあるのは、昔ガス工場用の貨物線があったから。駅ホームのガラス張りの駅員室(3番目の写真)は、東ドイツ時代の面影を残している。 (2024年3月16日) |
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国際女性の日
昨日3月8日は、「国際女性の日」だった。それを提唱したのが、ドイツの社会主義者クララ・ツェトキン(最初の写真。東ドイツの10マルク札)。1910年のことだった。
当時ツェトキン以外にも、女性の政治的自由と平等のために活動した女性が何人もいる。ベルリンに関わりのある女性だけでも、ミンナ・カウアー(2番目の写真)、ヘレーネ・ランゲ(3番目の写真)、ヘドヴィヒ・ドーム(4番目の写真)などだ。
3月8日が国際女性の日になったのは、1917年のロシア帝国で起こった2月革命に由来するという。ベオグラードで女性労働者中心に大きなデモが起こり、それがロシア帝国崩壊のきっかけになる。
東ドイツではこの日、身の回りの女性に花をプレゼントしたものだった。ベルリンでは今、3月8日は祝日。ドイツ北東部のメクレムブルク・フォアポムメルン州がそれに続いた。 (2024年3月09日) |
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新しい舞踏会ハウス
ベルリンの新しいイヴェントハウスを紹介したい。
Sバーンのボーンホルム駅から近いが、ちょっと中心からは離れている。しかし、ベルリンの戦前1920年代の雰囲気でリフォームされたところが魅力。調度は、アンティークな家具ばかりだ。
元々舞踏会ハウスだったところで、名前もそのまま「ウェディング舞踏会ハウス」という。
周りは住宅街で、そこにポツンと赤い入り口がでてくるのも異色。 (2024年3月02日) |
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グラフィティロード
ベルリンのほぼ中心に、シェーネベルク南地区自然公園というのがある。
これは、昔ベルリンから南部に向かう長距離列車の鉄道線路のあった跡。それを線路などを撤去しないまま、自然公園にしたもの。植物が自然に生息しやすいように整備し、後は自然に任せたような公園だ。
そのあちこちに、芸術作品プロジェクトが見られる。その一つが、グラフィティロードだ。
日曜日以外、午後3時からであれば誰でも『落書き』していいことになっている。 (2024年2月24日) |
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白いバラ
今から81年前の1943年2月18日、ミュンヒェン大学の学生ゾフィー・ショルが大学の入り口ホールに反ナチスを唱えるビラを撒き散らした。ゾフィーはそれを目撃したナチス党員の職員に、首謀者で兄のハンスとともに拘束され、ゲシュダボに引き渡された。
仲間のクリストフ・プロープストも拘束され、3人はその後の22日に死刑を宣告され、すぐにギロチンで処刑された。こうした当時のミュンヒェン大学を中心とした反ナチス運動を白いバラとか白バラといわれる。
昨年9月にミュンヒェンに行った時に、彼らのお墓にいきたくなった。3人のお墓の近くには、同じ仲間のロシア正教徒のアレキサンダー・ショモレルのお墓もある(3番目の写真)。アレキサンダーがロシア正教の聖人になっていることも知った。
ミュンヒェン大学の前には、ビラの記念碑が埋め込まれている(4枚目の写真)。 (2024年2月17日) |
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プレンツラウ並木通り駅
ぼくの気に入っているSバーンの駅の一つが、このプレンツラウ並木通り駅。
いつもそんなに混んでいないし、昔ながらの面影を残しているのがいい。
1891/1892年に建設されている。第二次世界大戦で損傷を受けたが、取り壊されずに残されていた。
1990年代前半に修復されているが、当時の面影をそのまま残した。
ホーム上の屋根を支える鉄骨も昔のまま。こんなのはもう見ることはできない。貴重なものだ。 (2024年2月10日) |
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シェーンハウス並木通り駅:
シェーンハウス並木通り駅は、環状線が1877年に丸くつながった後の1879年にオープンした。
当時の面影を残すのはもう、駅東側にあるグライフェンハーゲン橋だけしかない(4番目の写真)。橋は現在、文化財として保護されている。
駅に関してはホームのレンガ壁に写真が展示され、当時の面影を見ることができる(2番目の写真)。
駅は旧東ベルリン地区に位置するが、ベルリンの壁ができた後も東ベルリン北部に向かう交通の重要な駅として使われていた。
ぼく自身は、駅西側にある平屋出入口の庶民性が気に入っている(最初の写真)。 (2024年2月03日) |
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アウシュヴィッツ解放の日
今日1月27日は、アウシュヴィツとビルケナウ強制収容所が解放された日。
掲載したのは、1986年9月に撮ったアウシュヴィツの写真。当時は、行くのもそこから帰るのもかなりたいへんだった。
最初の写真はアウシュヴィツ入り口。3番目の写真は死の壁のある中庭。死の壁を背にして、射殺される囚人の目線で撮ってみた。最後の写真がガス室だ。
本サイトでは、インスタグラムに掲載したナチス強制収容所跡の写真を見れるようにしている。ほとんどが1980年代後半に撮った写真。そこも、のぞいてもらいたい。 (2024年1月27日) |
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ゲズントブルンネン駅
ゲズントブルンネン駅は、Sバーンの環状線と南北線が環状線北部で交差する駅。その点で「ノルトクロイツ(北十字)駅」といってもいい。
しかし南からくる線と北に行く線が、駅の前後で環状線と平行に走るようになっているため、線路は駅では交差していない。
19世紀後半に駅ができた時、まだSバーンはなかった。駅は、地域の名前から「ゲズントブルンネン駅」と命名された。
長距離線、ローカル線の駅でもある同駅は、鉄道発展の歴史を伝えている。戦後東西ベルリンが分割されると、国境に近い駅として駅の近くに戦車が警備していたこともある。
現在の駅は、統一後の1990年代に再開発がはじまり、順次完成した。 (2024年1月20日) |
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駅から見える線路
ベルリンのSバーン駅で写真を撮っていて、駅というのは駅構内だけではないなあと感じきてきた。
駅ホームの端から見える線路の姿も、駅それぞれで違って見える。
次の駅までよく見える駅もある(4枚目の写真)。地下駅では、地下のトンネル内はどうなっているのかなあと気になる(3枚目の写真)。
これまでは、駅舎と駅構内の写真を中心に紹介してきた。駅からの光景を撮った写真は、ほとんど掲載できなかった。
そこで今回は、駅のホームから上り、下りの線路はどのように見えるのか。その姿を紹介したい。 (2024年1月13日) |
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駅の壁画
ベルリンのSバーン駅を紹介するにあたっては、できるだけ駅構内の壁の様子もわかるように写真を選択してきた。
しかし、掲載できる写真の数には制限がある。どうしても抜けてしまう写真もあった。
そこで今回は、これまで掲載できなかった写真から、駅構内の『壁画』の様子を示す写真をいくつか紹介しておきたい。
最初の写真は、シェーネベルク駅、2枚目はアンハルト駅、3枚目がオラニエンブルク通り駅、最後の写真がオストクロイツ(東十字)駅で撮ったものだ。 (2024年1月06日) |
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