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カスパー・ダヴィート・フリードリヒ
今年2024年は、ドイツ・ロマン主義の代表的画家カスパー・ダヴィート・フリードリヒの生誕250年の年。
フリードリヒのコレクションを持つハンブルクとベルリン、ドレスデンでフリードリヒ展が開催される。現在はベルリンの番で、8月04日まで。オンライン・チケットはもう、6月まで完売だという。
フリードリヒの風景画では、見る側との間でコミュニケーションが起こる。その点で現代美術につながるものがあり、とてもモダンだ。印象派の絵画よりもモダンだと思う。
それは一つに、フリードリヒが風景を見ながら作品を完成させたのではなく、アトリで自分で見た風景を消化してから構想をたて(3番目の写真)、絵の中にビジョンを提示しているからだと思う。
フリードリヒはほとんど自画像を描いていない。直筆の自画像は最初写真のようにスケッチしかない。 (2024年4月27日) |
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ひょう(雹)
もう4月中旬というのに、ベルリンはここのところまた寒い。洗濯してタンスにしまっておいた厚手のコートとマフラーが必要なくらいだ。
先日急に、屋根と窓ガラスからバタバタバタとすごい音がする。何だと思ったら、大きなひょう(雹)が降っていた。
ひょう(雹)は、わが家のバルコニーの植物にも結構被害をもたらした。ブルベリーの花は落ちるし、プチトマトの葉はズタズタに引きちぎられて落ちていた。
バルコニーでもそうなのだから、農地での被害も心配だ。 (2024年4月20日) |
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フランクフルト並木通り駅
フランクフルト並木通り駅は、1890/91年にオープンした。その時にできたレンガ造りの駅舎が今も、残っている(最初の写真)。
ただ駅自体はその前の1872年に開設され、その時は「フリードリヒスベルク駅」という名前だった。近くに、同名のガーデンハウス地帯があったからだ。
東ドイツ建国の1949年からベルリンの壁のできる1961年までは「スターリン並木通り駅」だったが、東ドイツにおいて脱スターリン化が進み、「フランクフルト並木通り駅」に戻る。
「フランクフルト」とあるのは、環状線と交差するフランクフルト並木通りをまっすぐにいくと、ベルリンから東にあるフランクフルト/オーデルに至るからだ。フランクフルト/マインとは関係がない。 (2024年4月13日) |
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サクラのつぼみ
ベルリン南にある東西ドイツの国境地帯跡に、日本からの寄付でサクラの木が植えられ、サクラ並木ができている。
八重サクラの一種で、花はかなりピンク色だ。春になると人々が、日本のように『ハナミ』に訪れる。
4月に入って、そのサクラ並木に行ってみた。つぼみがかなり赤くなっているが、花はまだだった。
ベルリンでは今週末から来週、初夏のように暑くなる予報。サクラの花がまもなく見られるのではないか。 (2024年4月06日) |
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シュトルコウ通り駅
シュトルコウ通り駅には、ホームに屋根がない。環状線では唯一だ。
中央にある駅ホームは、細長い歩道橋からしか入れない(2番目の写真)。現在歩道橋は、205メートルある。2002年までは505メートルもあった。ベルリンでは一番長い。残っている部分は現在、文化財保護物件となっている。
歩道橋は元々、駅横にあった屠殺場への連絡路。駅は1977年まで「中央屠殺場駅」といわれた。屠殺場は1976年に一部、1990年に完全閉鎖された。
1881年にオープンした駅は戦後すぐに旧ソ連軍占領基地の専用駅として使われ、その後1947年に閉鎖。再び公共駅として利用されるようになるのは1951年からだ。 (2024年3月30日) |
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ランツベルク並木通り駅
ランツベルク並木通り駅は、1895年に環状線とランツベルク並木通りの交差する地点に開設された。
ランツベルク並木通りが東ドイツ建国後の1950年に「レーニン並木通り」と改名されたことに伴い、駅名も「レーニン並木通り駅」となる。しかしドイツ統一後の1992年、旧名の「ランツベルク並木通り駅」に戻された。
東ドイツの雰囲気の残る駅だったと思ったが、ホームにガラス張りの屋根ができてモダンに感じるようになった。
東ドイツの雰囲気を残しているのは、橋にあるバラックのような駅出入り口だろうか(3番目の写真)。 (2024年3月23日) |
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グライフスヴァルト通り駅
グライフスヴァルト通り駅は、1875年に設置された。当時は、地区の名前から「ヴァイセンぜー駅」と呼ばれていた。
「グライフスヴァルト通り駅」に改名されたのは、戦後の1946年になってから。しかしそれも1986年まで。駅近くにあったガス工場跡に集合住宅と公園ができたのに合わせて、「エルンスト・テールマン公園駅」と改名された。東西ドイツ統一後の1993年、駅は再び「グライフスヴァルト通り駅」に戻される。
エルンスト・テールマンは戦前、ドイツ共産党の議長だった。
駅横に線路が何本もあるのは、昔ガス工場用の貨物線があったから。駅ホームのガラス張りの駅員室(3番目の写真)は、東ドイツ時代の面影を残している。 (2024年3月16日) |
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国際女性の日
昨日3月8日は、「国際女性の日」だった。それを提唱したのが、ドイツの社会主義者クララ・ツェトキン(最初の写真。東ドイツの10マルク札)。1910年のことだった。
当時ツェトキン以外にも、女性の政治的自由と平等のために活動した女性が何人もいる。ベルリンに関わりのある女性だけでも、ミンナ・カウアー(2番目の写真)、ヘレーネ・ランゲ(3番目の写真)、ヘドヴィヒ・ドーム(4番目の写真)などだ。
3月8日が国際女性の日になったのは、1917年のロシア帝国で起こった2月革命に由来するという。ベオグラードで女性労働者中心に大きなデモが起こり、それがロシア帝国崩壊のきっかけになる。
東ドイツではこの日、身の回りの女性に花をプレゼントしたものだった。ベルリンでは今、3月8日は祝日。ドイツ北東部のメクレムブルク・フォアポムメルン州がそれに続いた。 (2024年3月09日) |
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新しい舞踏会ハウス
ベルリンの新しいイヴェントハウスを紹介したい。
Sバーンのボーンホルム駅から近いが、ちょっと中心からは離れている。しかし、ベルリンの戦前1920年代の雰囲気でリフォームされたところが魅力。調度は、アンティークな家具ばかりだ。
元々舞踏会ハウスだったところで、名前もそのまま「ウェディング舞踏会ハウス」という。
周りは住宅街で、そこにポツンと赤い入り口がでてくるのも異色。 (2024年3月02日) |
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グラフィティロード
ベルリンのほぼ中心に、シェーネベルク南地区自然公園というのがある。
これは、昔ベルリンから南部に向かう長距離列車の鉄道線路のあった跡。それを線路などを撤去しないまま、自然公園にしたもの。植物が自然に生息しやすいように整備し、後は自然に任せたような公園だ。
そのあちこちに、芸術作品プロジェクトが見られる。その一つが、グラフィティロードだ。
日曜日以外、午後3時からであれば誰でも『落書き』していいことになっている。 (2024年2月24日) |
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白いバラ
今から81年前の1943年2月18日、ミュンヒェン大学の学生ゾフィー・ショルが大学の入り口ホールに反ナチスを唱えるビラを撒き散らした。ゾフィーはそれを目撃したナチス党員の職員に、首謀者で兄のハンスとともに拘束され、ゲシュダボに引き渡された。
仲間のクリストフ・プロープストも拘束され、3人はその後の22日に死刑を宣告され、すぐにギロチンで処刑された。こうした当時のミュンヒェン大学を中心とした反ナチス運動を白いバラとか白バラといわれる。
昨年9月にミュンヒェンに行った時に、彼らのお墓にいきたくなった。3人のお墓の近くには、同じ仲間のロシア正教徒のアレキサンダー・ショモレルのお墓もある(3番目の写真)。アレキサンダーがロシア正教の聖人になっていることも知った。
ミュンヒェン大学の前には、ビラの記念碑が埋め込まれている(4枚目の写真)。 (2024年2月17日) |
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プレンツラウ並木通り駅
ぼくの気に入っているSバーンの駅の一つが、このプレンツラウ並木通り駅。
いつもそんなに混んでいないし、昔ながらの面影を残しているのがいい。
1891/1892年に建設されている。第二次世界大戦で損傷を受けたが、取り壊されずに残されていた。
1990年代前半に修復されているが、当時の面影をそのまま残した。
ホーム上の屋根を支える鉄骨も昔のまま。こんなのはもう見ることはできない。貴重なものだ。 (2024年2月10日) |
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シェーンハウス並木通り駅:
シェーンハウス並木通り駅は、環状線が1877年に丸くつながった後の1879年にオープンした。
当時の面影を残すのはもう、駅東側にあるグライフェンハーゲン橋だけしかない(4番目の写真)。橋は現在、文化財として保護されている。
駅に関してはホームのレンガ壁に写真が展示され、当時の面影を見ることができる(2番目の写真)。
駅は旧東ベルリン地区に位置するが、ベルリンの壁ができた後も東ベルリン北部に向かう交通の重要な駅として使われていた。
ぼく自身は、駅西側にある平屋出入口の庶民性が気に入っている(最初の写真)。 (2024年2月03日) |
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アウシュヴィッツ解放の日
今日1月27日は、アウシュヴィツとビルケナウ強制収容所が解放された日。
掲載したのは、1986年9月に撮ったアウシュヴィツの写真。当時は、行くのもそこから帰るのもかなりたいへんだった。
最初の写真はアウシュヴィツ入り口。3番目の写真は死の壁のある中庭。死の壁を背にして、射殺される囚人の目線で撮ってみた。最後の写真がガス室だ。
本サイトでは、インスタグラムに掲載したナチス強制収容所跡の写真を見れるようにしている。ほとんどが1980年代後半に撮った写真。そこも、のぞいてもらいたい。 (2024年1月27日) |
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ゲズントブルンネン駅
ゲズントブルンネン駅は、Sバーンの環状線と南北線が環状線北部で交差する駅。その点で「ノルトクロイツ(北十字)駅」といってもいい。
しかし南からくる線と北に行く線が、駅の前後で環状線と平行に走るようになっているため、線路は駅では交差していない。
19世紀後半に駅ができた時、まだSバーンはなかった。駅は、地域の名前から「ゲズントブルンネン駅」と命名された。
長距離線、ローカル線の駅でもある同駅は、鉄道発展の歴史を伝えている。戦後東西ベルリンが分割されると、国境に近い駅として駅の近くに戦車が警備していたこともある。
現在の駅は、統一後の1990年代に再開発がはじまり、順次完成した。 (2024年1月20日) |
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駅から見える線路
ベルリンのSバーン駅で写真を撮っていて、駅というのは駅構内だけではないなあと感じきてきた。
駅ホームの端から見える線路の姿も、駅それぞれで違って見える。
次の駅までよく見える駅もある(4枚目の写真)。地下駅では、地下のトンネル内はどうなっているのかなあと気になる(3枚目の写真)。
これまでは、駅舎と駅構内の写真を中心に紹介してきた。駅からの光景を撮った写真は、ほとんど掲載できなかった。
そこで今回は、駅のホームから上り、下りの線路はどのように見えるのか。その姿を紹介したい。 (2024年1月13日) |
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駅の壁画
ベルリンのSバーン駅を紹介するにあたっては、できるだけ駅構内の壁の様子もわかるように写真を選択してきた。
しかし、掲載できる写真の数には制限がある。どうしても抜けてしまう写真もあった。
そこで今回は、これまで掲載できなかった写真から、駅構内の『壁画』の様子を示す写真をいくつか紹介しておきたい。
最初の写真は、シェーネベルク駅、2枚目はアンハルト駅、3枚目がオラニエンブルク通り駅、最後の写真がオストクロイツ(東十字)駅で撮ったものだ。 (2024年1月06日) |
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